第六話 月に一度の客
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
シャロウが研究棟へ来て、五日目の朝。
食堂では、有紗と紫音の向かいで、シャロウが朝食のスープを飲んでいた。
最初の朝とは違い、もう誰も、彼がそこにいることを不自然には思っていない。
「今日は、旧排水路の奥を確認します」
紫音が食後のお茶を飲みながら告げる。
「昨日も見ただろ」
「昨日確認したのは、外壁側から三つ目の分岐までです。その先に崩落箇所があります」
「獣の痕跡はなかった」
「あなたが見落としていないという保証はありません」
「お前よりは当てになる」
「……聞き捨てなりませんね」
「朝から喧嘩しないで」
有紗が困ったように二人を見た。
その時、玄関の鈴が鳴った。
「あら、お早いですね」
リネットは、誰が来たのか分かっているように食堂を出ていく。
「焼き菓子は、まだ冷ましているところですよ」
廊下へ向かって付け加えると、近づいていた足音が一度止まった。
「焼き菓子のために早く来たわけではない」
平坦な声が返ってくる。
間もなく、食堂へ小柄な少女が入ってきた。
長い銀髪に、紫色の瞳。
白と淡紫を基調とした大きな研究用外套をまとい、頭には猫の耳を模したフードを被っている。首には丸いレンズのゴーグルを下げ、腰には色の異なる液体を収めた小さな試験管が並んでいた。
片腕には分厚い記録端末を抱え、もう片方の手で大きな器具箱を提げている。
「シンシア!」
有紗の顔が明るくなった。
「今日は早かったんだね」
「予定より二時間早く着いた」
「それは、予定を守っていないということでは?」
紫音が言う。
「到着した時刻が、今日の正しい予定」
「勝手に予定を書き換えないでください」
シンシアは紫音の言葉を聞き流し、食卓へ視線を移した。
シャロウを見つけると、足を止める。
「知らない人がいる」
「こっちの台詞だ」
シャロウもスープの匙を止め、シンシアを見た。
「……誰だ、このガキ」
シンシアの紫色の瞳が、すっと細くなった。
「ガキじゃない」
先ほどまで平坦だった声が、明らかに低くなる。
「外見だけを根拠に年齢を推定するのは不正確。私は子供ではないし、初対面の相手から幼児と同等の呼称を用いられる理由もない。訂正して」
予想以上の勢いに押され、シャロウが僅かに身を引いた。
「……悪かったよ」
「訂正して」
「ガキじゃ……ないです」
「よろしい」
シンシアは短く頷いた。
シャロウは、自分がなぜ敬語を使ったのか分からないような顔をしたあと、改めて彼女を見た。
「ところで、お前、いったい何歳なんだよ」
「十九歳」
「…………は?」
「有紗より一つ上」
シャロウはシンシアを見たあと、隣にいる有紗へ視線を移した。
「嘘だろ」
「本当だよ」
有紗が頷く。
「シンシアの方がお姉さんなの」
「……見えねえ」
シンシアの目が、再び細くなった。
「だから、外見だけで年齢を推定するのは不正確」
「悪かったって」
「二回目」
「……本当に悪かった」
有紗は二人のやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
「シンシアは紫音くんと同じ研究者なの。月に一度、私の魔力を測りに来てくれるんだよ」
「同じではない」
シンシアが即座に訂正した。
「研究しているものが違う」
「へえ。研究って言っても、色々あるんだな」
シャロウは何気なく相槌を打った。
「ある。紫音の研究は、魔力構造と既存術式の解析、安定化、運用効率の向上。すでに存在するものを、より正確に扱うための研究」
「その説明には、やや悪意を感じますね」
「事実」
シンシアは気にせず続ける。
「一方、私の研究は、まだ定義すら確立されていない記憶情報の質量化。記憶の再生時には、呼吸数、心拍、筋緊張、体温、魔力循環速度が同時に変動する。特定の感情を伴う記憶ほど変化量が大きく、反復して想起された記憶は魔力経路にも残留傾向を示す。つまり記憶は情報として保存されるだけではなく、身体と魔力に継続的な負荷を与えている可能性が高い」
「……もういい。飯が冷める」
シャロウはスープの匙を取り直した。
「かなり省いた」
匙が、再び止まる。
「……あれでかよ」
シンシアは答えず、改めてシャロウを観察した。
乱れた黒髪。腰に差した剣。初対面の相手へ向けられた、警戒心の強い目。
次に紫音を見る。
「珍しいな」
「何がです?」
「紫音が、剣を持った素性の分からない男を研究棟に入れている」
「旧排水路の封鎖が終わるまで、一時的に滞在しているだけです」
「食事は一日三回?」
「ああ」
「部屋もある?」
「客室だ」
「鍵は持っている?」
シャロウが黙る。
シンシアは小さく頷いた。
「理解した。半分、住んでいる」
「住んでねえ」
「そのうち完全に住むかもしれない」
「住まねえよ」
「未来は未確定」
「勝手に決めんな」
◇
朝食を終えると、シンシアは器具箱を抱えて立ち上がった。
「有紗。測定」
「あ、そうだった」
有紗も席を立つ。
「もう一か月経ったんだね」
「正確には二十九日と二十一時間」
「ほとんど一か月でしょう」
紫音が言う。
「違う時間は、違う」
「毎月測る必要があるのか?」
シャロウが尋ねる。
「有紗の治癒魔法は、一般的な術式とは性質が異なります」
紫音が答えた。
「体調や感情による変化を見落とさないため、定期的な記録が必要なのです」
「主に測定しているのは私」
シンシアが付け加える。
「紫音は記録と口出し」
「管理と検証です」
「同じ」
「違います」
シンシアは器具箱を持ち上げ、シャロウを見る。
「シャロウも来て」
「なんで俺が」
「有紗の直近の変化に関係している可能性がある」
「俺は何もしてねえぞ」
「何もしていないかどうかを確認するためにも、観察対象は近くにいた方がいい」
「俺まで測る気じゃねえだろうな」
「今のところ、その予定はない」
「今のところ?」
「測定の邪魔はしないでください」
紫音が先に立ち、測定室の扉を開けた。
シャロウは露骨に嫌そうな顔をしたが、有紗が当然のように振り返って待っているのを見て、諦めたように席を立った。
シンシアが測定室へ向かおうとすると、リネットが呼び止めた。
「シンシア様」
「何?」
「焼き菓子は、測定が終わってからお出しいたしますね」
シンシアの視線が、厨房の方へ動く。
「先に一つ食べても、測定値には影響しない」
「朝食を召し上がったばかりでございます」
「糖分は脳の活動に必要」
「測定後でございます」
「……分かった」
シンシアは器具箱を抱え直し、素直に測定室へ向かった。
シャロウはその背中を見送る。
「随分素直に従うんだな」
「リネットの焼き菓子は、とってもおいしいんだよ」
有紗が当然のように答えた。
◇
測定室の中央には椅子が一脚置かれ、その周囲を囲むように透明な結晶が並んでいた。
有紗が椅子へ座ると、シンシアは透明石のついた細い腕輪を右手首へ巻く。
「普段どおりに呼吸して」
「うん」
紫音が記録器を動かす。
腕輪に白金色の光が灯り、周囲の結晶へ細い光が流れた。壁際の記録紙に、複数の波線が刻まれていく。
「平常時は前回とほぼ同じ。出力は少し上昇」
「じゃあ、元気ってこと?」
「それは別」
「そうなの?」
「そう」
シンシアは記録を確認し、次の欄を開いた。
「最近、自分で決めたことを一つ思い出して」
「自分で決めたこと?」
「誰かに言われたからではなく、自分がそうしたいと思って選んだこと」
有紗は少し考え、目を閉じた。
最初に浮かんだのは、薄暗い路地だった。
傷だらけのまま、壁へ寄りかかっていたシャロウ。
近づくなと拒まれても、足を止められなかった。
「……思い出した」
「何を?」
「シャロウを見つけた時のこと。怪我してて、今にも倒れそうだった」
「……そんなに重要じゃねえだろ」
シャロウは少し早口で遮り、顔を背けた。
「でも、すごく心配だった」
有紗は目を閉じたまま、少し笑った。
「ちゃんと治せた時、すごく安心したの」
結晶を満たす白金色の光が、呼吸に合わせて大きく脈打った。
「その前は?」
シンシアが記録器を見つめたまま尋ねる。
「初めてシャロウを見た時?」
「うん。そこから順番に思い出して」
「知らない人だったから、少し怖かった。でも、怪我してたから声をかけたの」
「拒否された?」
「近づくなって言われたよ」
その瞬間、記録器の針が僅かに揺れた。
「それでも、近づいた?」
「うん。放っておけなかったから」
白金色の波の下に、これまでとは異なる細い波形が重なった。
シンシアの目が、記録紙へ留まる。
「続けて」
「治したあと、シャロウは帰ろうとしたの。でも、まだ心配だったから追いかけたよ」
細い波が、少しずつ大きくなる。
「放っておけって言われたけど、私が気になってたから」
シャロウの肩が僅かに強張った。
有紗は気づかず、記憶をたどっていく。
「それで、研究棟まで一緒に来てくれて……嬉しかった」
波形が、もう一度大きく揺れた。
シンシアは記録器を止めた。
「前回までにはない波」
「治癒魔法の出力変化ですか?」
紫音が記録紙を覗き込む。
「違う」
シンシアは波形を指でたどった。
「変化したのは、治した時じゃない。近づくと決めたところから」
「自己判断に伴う情動変化の可能性がありますね」
「可能性。断定はできない」
シンシアは有紗とシャロウを交互に見る。
「条件が多い。身元不明。危険性あり。拒絶あり。これまで接したことのない種類の相手。年齢の近い異性」
「悪口かよ」
「分類」
「ほとんど悪口だろ」
「事実」
「異性だと、魔力が変わるの?」
有紗が首を傾げる。
「人による。有紗では、これまで記録がない」
「王宮内で接してきた人々とは、状況が大きく異なりますからね」
紫音は淡々と答え、記録紙へ筆を走らせた。
「新規波形。自己判断を伴う対人記憶において確認。原因未確定。次回、比較測定を実施」
「それが正確」
シンシアが短く頷く。
「危ないものなの?」
有紗が尋ねた。
「分からない」
「分からないものを、危険だとは決められません」
今度は紫音が答えた。
「現時点では、体調にも魔力出力にも異常はありません。普段どおりで構いません」
「そっか」
有紗は安心したように笑った。
シャロウは、記録紙に残った大きな波を一瞥した。
『ずっと、あなたのことが気になっちゃうもん……』
あの時の声が、不意に蘇る。
自分が測られれば、あの一言だけで針が大きく跳ねる。そんなものを人前で記録されてたまるか。
シャロウは記録器から目を逸らした。
「……俺は測るなよ」
「研究対象外。無意味な測定は、時間と研究費の無駄」
「そこまで言うかよ」
「事実」
◇
測定を終えて食堂へ戻ると、リネットが焼き菓子を並べていた。
蜂蜜を練り込んだ小さな焼き菓子から、甘い香りが立ち上っている。
それを見た瞬間、シンシアの紫色の瞳が、目に見えて輝いた。
「それ、私の?」
「皆様の分でございます」
「私の分は?」
「本日は三つほど」
「四つ」
「次回、予定のお時間にお越しいただけましたら、四つご用意いたします」
「到着時刻と個数に因果関係はない」
「本日は、まだ冷ましている途中でございましたので」
シンシアは皿の焼き菓子を見つめたまま、しばらく黙った。
「次は、予定どおりに来る」
「ありがとうございます」
リネットは穏やかに微笑んだ。
シャロウが小声で有紗へ尋ねる。
「リネットの言うことは聞くんだな」
「みんな聞くよ?」
「……だろうな」
焼き菓子を食べ終える頃、シャロウは椅子から立ち上がった。
「俺は排水路を見てくる」
紫音が記録紙から顔を上げる。
「一人では許可できません」
「昨日見つけた崩落箇所を確認するだけだ。奥には入らねえよ」
「その言葉を信用する根拠がありません」
「じゃあ、どうしろってんだ」
紫音は少し考え、記録紙を机へ置いた。
「崩落箇所より先へ進まないこと。内部で魔獣の気配を感じた場合は、戦わずに戻ること。暗くなる前に帰ること」
「条件が多すぎるだろ」
「守れないのであれば、行かせません」
シャロウは面倒そうに息を吐いた。
「……分かったよ」
「本当に?」
有紗が心配そうに尋ねる。
「見るだけだ。すぐ戻る」
「気をつけてね」
「ああ」
シャロウは外套を取り、研究棟を出ていった。
◇
夕方になると、シンシアは器具箱を閉じた。
「次は一か月後」
「二十九日と何時間後ですか?」
紫音が尋ねる。
「まだ決めてない」
「そこは正確ではないのですね」
「未来は未確定」
シンシアは包んでもらった焼き菓子を大切そうに器具箱へ収め、有紗へ向き直った。
「何か変化があったら、覚えておいて」
「シンシアが覚えるんじゃなくて?」
「有紗の変化は、有紗の記憶の中にある」
「うん。分かった」
シンシアが帰ったあと、研究棟はいつもの静けさを取り戻した。
夜になり、リネットが夕食を食卓へ並べる。
有紗と紫音の皿。
その隣に、もう一枚。
旧排水路の確認へ出ていたシャロウは、まだ戻っていなかった。
「シャロウ、遅いね」
「暗くなるまでには戻ると仰っていました」
リネットは三枚目の皿にも、温かな料理を盛りつける。
やがて、玄関の扉が開く音がした。
土のついた外套のまま、シャロウが食堂へ入ってくる。
「おかえり、シャロウ」
有紗が笑った。
「奥の崩落はどうでした?」
紫音が尋ねる。
「瓦礫の下に、獣の足跡が残ってた。崩れたのは、あいつらが通ったあとだ。奥に魔獣の気配はなかった」
「分かりました。詳しい確認は明日にしましょう」
「……言われなくても、今日はもう行かねえぞ」
「当然です。先に食事にしてください」
シャロウは食卓へ目を向けた。
自分が戻る前から、そこには一人分の料理が用意されている。
もう、それを不思議には思わなかった。
何も言わず、いつもの椅子を引いた。
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