第五話 明日の朝も
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
研究棟へ戻ると、食堂には牛肉と根菜の煮込みが用意されていた。
深い皿から立ち上る湯気に、シャロウの視線が吸い寄せられる。
「お帰りなさいませ。外壁の様子はいかがでしたか?」
リネットが尋ねた。
「旧排水路が開いていました」
紫音が外套を脱ぎながら答える。
「すぐに封鎖できる状態ではありません。内部の調査も必要です」
「さようでございますか」
リネットは僅かに心配そうな顔をしたが、すぐにシャロウの前へ煮込み料理を置いた。
「シャロウ様も、お疲れさまでした」
「ああ」
シャロウは席に着くなり、匙を手にした。
柔らかく煮込まれた肉を一口食べ、間を置かずに次をすくう。
その横へ、リネットが皮を香ばしく焼いた厚切りのカンパーニュを置いた。
シャロウは当然のように一枚取り、煮込みの汁へ浸す。
硬めの皮が汁を含んで柔らかくなり、湯気と一緒に麦の香りが立った。
「食事中ですが、今後について確認します」
紫音は食卓の端へ旧排水路の図面を広げた。
「飯くらい静かに食わせろ」
「その前に、狩猟組合の登録札を確認させてください」
「今さらかよ」
「昨夜は治療を優先しました。今朝は現場の確認を優先しただけです」
「後回しにしてただけじゃねえか」
「そうとも言います」
シャロウは面倒そうに外套の内側へ手を入れ、黒ずんだ金属札を卓上へ放った。
紫音はそれを手に取り、刻まれた名と登録印を確認する。
「現役の組合員であることは確認できました」
「偽物だと思ってたのか」
「素性の分からない人間を、無条件で信用するほど不用心ではありません」
「そのわりに、現場まで連れていっただろ」
「有紗を連れていくと言い出したのは、あなたです」
「許したのはお前だろ」
「その件については、今後の検討事項です」
紫音は登録札をシャロウの前へ戻した。
「では、封鎖が終わるまでは、あなたにも協力していただきます」
「なんで俺が」
「正確に魔獣の痕跡を追えるのは、あなたです」
「見つけたのは俺だ。そこまでで十分だろ」
「それでは、食事と部屋の提供も本日までということになります」
シャロウの匙が止まった。
有紗が不安そうに紫音を見る。
「今日で出ていかなきゃ駄目なの?」
「本人が協力しないのであれば、滞在させる理由がありません」
「紫音くん……」
「脅してんのか」
シャロウが低く尋ねる。
「条件を提示しているだけです」
紫音は気にした様子もなく、指を一本立てた。
「旧排水路の調査と封鎖に協力すること」
「……」
「魔獣の気配を感知した場合は、必ず報告すること」
「内容による」
「必ずです」
「面倒だな」
「許可なく研究区画へ立ち入らないこと」
「興味ねえよ」
紫音は指をもう一本立てた。
「滞在している間、有紗が今回の調査に関係する場所へ出る場合は、あなたにも同行していただきます」
「待て」
シャロウが眉を寄せる。
「俺をこいつの番犬にする気か?」
「今朝、自分が見ていると仰ったのはあなたでしょう」
「あれは、あの場だけの話だ」
「有紗は危険を見つけると、自分から近づいていきます」
「近づかないよ」
有紗が小さく抗議した。
紫音とシャロウが同時に彼女を見る。
「……怪我をしている人がいたら、声はかけるけど」
「同じことです」
「同じだろ」
二人の声が重なった。
有紗は困ったように眉を下げる。
「ほら」
シャロウが紫音へ顎を向けた。
「お前が見てろ」
「私が常に同行できるとは限りません」
「だからって、なんで俺なんだよ」
「魔獣の気配を感知でき、戦闘能力があり、有紗の制止に成功した実績があります」
「一回だけだろ」
「十分です」
「どこがだ」
「比喩としての番犬です。気にしないでください」
「気にするだろ」
有紗が二人を見比べる。
「シャロウは、嫌?」
問われて、シャロウは口を閉じた。
有紗は引き留めるでもなく、ただ返事を待っている。
シャロウは小さく舌打ちすると、煮込みへ視線を戻した。
「……封鎖が終わるまでだ」
「構いません」
「毎回ついていくとは言ってねえぞ」
「必要な場合だけです」
「こいつが勝手なことをしても、俺の責任にすんなよ」
「善処してください」
「責任にする気じゃねえか」
紫音は図面を畳んだ。
「対価として、現在使用している客室と、一日三回の食事を提供します」
シャロウの視線が、煮込み料理へ一度だけ落ちる。
「何日だ」
「調査結果によりますが、数日から一週間ほどでしょう」
「仕事が終わるまでだ」
「はい」
「終わったら出ていく」
「分かった」
有紗があまりにも素直に頷いたため、シャロウは僅かに眉を寄せた。
「何で嬉しそうなんだよ」
「だって、明日も一緒に朝ごはんを食べられるでしょう?」
「それだけか」
「それだけじゃ駄目?」
有紗が首を傾げる。
シャロウは答えず、残っていた煮込みを口へ運んだ。
◇
その日の夕食後。
「ここが、昨日使ってもらったお部屋だよ」
有紗はシャロウを客室へ案内した。
「知ってる」
「今日から、しばらくシャロウのお部屋だね」
「数日借りるだけだ」
「うん。でも、その間はシャロウのお部屋でしょう?」
有紗は細い鍵を差し出した。
シャロウはそれを見下ろしたまま、受け取ろうとしない。
「いらねえ。中から閉められる」
「外から戻った時に入れないよ」
「誰かに開けてもらう」
「誰もいなかったら?」
「その時は待つ」
「でも、鍵があれば待たなくていいでしょう?」
有紗は当然のように言った。
シャロウは返事をしなかった。
有紗は彼の手を取り、その掌へ鍵を置く。
「なくさないでね」
「子供じゃねえ」
「じゃあ、大丈夫だね」
有紗は満足そうに笑い、廊下へ出た。
「おやすみ、シャロウ」
「まだ寝ねえよ」
返事を聞いた有紗は小さく笑い、扉を閉めた。
シャロウは掌に残された鍵をしばらく見つめたあと、机の上へ置いた。
◇
夜が深まり、研究棟の物音が少なくなった頃。
客室の窓を、白金色の光が横切った。
月明かりではない。
シャロウが訝しげに窓を開けると、中庭に有紗が立っていた。
夜空を見上げ、両手を胸の前へ掲げている。
指先には白金色の細い光が集まり、有紗が手を動かすたび、糸のように空中へ伸びていく。
光は少しずつ重なり、小さな星の輪郭を作った。
けれど、最後の一筋を結ぶ直前で形が崩れ、淡い粒となって散る。
「あ……」
有紗は消えた光を見つめた。
何度か指を開閉したあと、もう一度、夜空へ手を伸ばす。
「何やってんだ、あいつ」
シャロウは小さく呟いた。
それでも、窓から離れなかった。
今度は先ほどよりもゆっくりと、白金色の光の粒が重ねられていく。
一つ。
もう一つ。
細かな光はさらさらと流れながら集まり、夜の中に小さな星の形を作った。
僅かに歪んでいたが、今度はすぐには崩れない。
「できた……?」
有紗の顔が明るくなる。
だが、星を空へ放そうとした瞬間、その輪郭が小さく震えた。
白金色の粒は互いを繋ぎ止められず、さらさらと零れ落ちるようにほどけていく。
「あ……」
光は空へ昇ることなく、淡い粒となって夜の中へ消えた。
有紗は空になった指先を見つめた。
シャロウもまた、窓辺に立ったまま消えた光の先を眺めていた。
「……変な魔法だな」
有紗には届かない声で呟く。
その時、彼女がふと研究棟を振り返った。
シャロウは反射的に窓から身を引き、静かに窓を閉めた。
◇
それからしばらくして、客室の扉が控えめに二度叩かれた。
「シャロウ、起きてる?」
「何だ」
扉を開けると、有紗が畳んだ毛布と、小さな包みを抱えて立っていた。
先ほどまで外にいたせいか、頬が僅かに冷えている。
「夜、寒いかもしれないから予備の毛布」
「中にもある」
「それから、ミルクパン。夜中にお腹が空いたら食べてね」
「空かねえよ」
そう言いながら、シャロウは包みを受け取った。
有紗は満足そうに笑う。
「明日の朝も、一緒に食べようね」
「起きてたらな」
「じゃあ、起こしに来る」
「来んな」
「おやすみ、シャロウ」
返事を待たず、有紗は廊下を戻っていった。
小さくなっていく足音を聞きながら、シャロウはしばらく扉の前に立っていた。
手には、まだほんのり温かいミルクパンの包みがある。
シャロウはそれを机へ置いた。
その時、脇に置いたままの鍵が目に入る。
少しだけ迷ったあと、鍵を手に取り、外套の内ポケットへしまった。
それから、扉の内側の錠を下ろした。
読んでくださってありがとうございます。
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