第九話 猫と一緒に拾った青年
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
「レア様?」
有紗が聞き返すと、青年の紫色の瞳がゆっくりと揺れた。
遠い場所を見ていた視線が、ようやく目の前の有紗へ戻ってくる。
自分がその手を強く握り締めていることに気づき、青年は僅かに指を緩めた。
「……失礼いたしました。人違いです」
「そうなの?」
「はい」
青年は有紗の手を離し、壁へ手をついて立ち上がろうとした。
だが、指先が離れた途端、顔から再び血の気が引く。
膝が崩れ、その身体が大きく傾いた。
「危ない!」
有紗が咄嗟に腕を掴む。
触れた場所から白金色の光が広がると、青年の強張っていた呼吸が僅かに緩んだ。
「やっぱり、まだ痛いの?」
「……先ほどよりは、随分と」
青年は有紗に掴まれた腕を見下ろした。
「どうやら、あなたに触れている間だけ、痛みが和らぐようです」
「手を握っていればいいの?」
「それだけでも。ただ――」
青年は少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「触れている場所が広い方が、より楽になるように思います。先ほどは、手だけではなく腕まで触れていましたので」
シャロウの眉間に、深い皺が寄った。
「随分と都合のいい症状だな」
「私も、そう聞こえるだろうとは思います」
「否定しねえのかよ」
「事実を申し上げただけですので」
青年は穏やかに答えたが、まだ有紗に支えられていなければ立っていられないらしい。
「そういえば、お名前を聞いていませんでした」
「申し遅れました」
青年は姿勢を整えようとして、僅かによろめいた。
「リュシアンと申します」
「リュシアンさん」
有紗は確かめるように、その名を繰り返した。
「私は有紗。こっちはシャロウ」
「シャロウさんのお名前は、先ほどから何度か伺っております」
「誰が何度も呼んだんだよ」
「私かな?」
「お前以外にいねえだろ」
有紗は納得したように頷くと、腕の中のルゥを抱き直した。
「私たち、ルゥを薬舗へ連れて帰るところなの。リュシアンさんも一緒に行こう?」
「ですが、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
リュシアンは有紗から離れようとした。
だが、触れ合う場所が減った途端、呼吸が僅かに乱れる。
「やっぱり、まだ痛いんでしょう?」
「……触れている間は、随分と楽になるようです」
有紗は空いている側の肩を、リュシアンへ向けた。
「じゃあ、ここにつかまって」
「しかし――」
「薬舗までだから。ね?」
リュシアンは僅かにためらったあと、有紗の肩へ右腕を回した。
身体が近づくと、浅かった呼吸が少しずつ整っていく。
黒紫色の長い髪が、有紗の肩へさらりと落ちた。
「……随分、楽になりました」
「近すぎねえか?」
「離れたら、また痛くなるよ」
「……分かってる」
シャロウはリュシアンを一度じろりと見た。
「薬舗までだぞ。途中で無理になったら、黙って倒れずに言え」
「承知しました」
シャロウは先に倉庫の出口へ向かった。
その後ろを、ルゥを抱いた有紗と、有紗の肩へ身を預けたリュシアンが、ゆっくりと歩き始めた。
薬舗へ戻ると、主人は有紗の腕の中にいるルゥを見るなり、カウンターを回り込んできた。
「ルゥ!」
差し出された腕へ、白い猫が飛び移る。
主人は何度も名を呼びながら、その小さな身体を抱き締めた。
「本当に……ありがとうございました」
「怪我もなさそうです」
「よかった……」
ルゥは主人の胸元で一度だけ鳴き、それから安心したように目を細めた。
主人は猫の身体をひと通り確かめたあと、ようやく有紗の隣に立つ青年へ目を向けた。
「……そちらの方は?」
「ルゥと同じ倉庫にいたの。具合が悪いみたいで」
「ご心配には及びません」
リュシアンは穏やかに微笑んだ。
だが、有紗の肩へ腕を回したままでは、その言葉にもあまり説得力がなかった。
「奥に椅子がございます。少しお休みになりますか?」
「いえ。ここまで来れば大丈夫です」
リュシアンは丁寧に頭を下げた。
主人はまだ心配そうだったが、ひとまず奥から包みを持ってきた。
「紫音先生から頼まれていた薬品です。遅くなってしまって、申し訳ありません」
「これで紫音くんの実験も進められるね」
有紗が包みを受け取る。
「では、私はこれで失礼いたします」
リュシアンは有紗の肩から、ゆっくりと腕を外した。
一歩、離れる。
その途端、顔から血の気が引いた。
胸元を押さえ、身体が僅かに傾く。
「リュシアンさん?」
有紗が咄嗟に腕を支えると、再び白金色の光が淡く広がった。
強張っていたリュシアンの呼吸が、少しずつ和らいでいく。
シャロウはその様子を見て、低く息を吐いた。
「猫は返した。薬も受け取った。次はこいつか」
「拾われたつもりはありませんが」
「自分で歩けるようになってから言え」
リュシアンは何かを返そうとしたが、有紗に支えられたままでは反論しづらかったらしい。
困ったように微笑むだけだった。
「紫音くんなら、何が起きてるか分かるかもしれないよ」
「ですが――」
「ここで倒れられる方が困る」
シャロウが先に言った。
「研究棟まで来い。話はそれからだ」
「……ありがとうございます」
「礼は歩けるようになってからにしろ」
こうして有紗たちは、予定になかった客人を連れて研究棟へ戻ることになった。
研究棟へ戻るまで、リュシアンは有紗からほとんど離れられなかった。
一度は自分だけで歩こうとしたものの、数歩進んだところで顔色を失い、膝をつきかけた。
そのため今は、有紗の肩へ右腕を回し、支えられながら歩いている。
長い黒紫の髪が、有紗の頬へ時折触れた。
「重くありませんか」
耳元で、リュシアンが申し訳なさそうに尋ねる。
「大丈夫です」
「無理をなさらないでくださいね」
「無理してんのはお前だろ」
前を歩いていたシャロウが振り返った。
「悪いと思ってんなら、もう少し自分で立て」
「努力はしています」
「結果が伴ってねえな」
リュシアンは言い返さず、僅かに有紗へ寄りかかった。
「シャロウ。痛いんだから仕方ないよ」
「分かってる」
シャロウは眉間へ皺を寄せたまま前を向く。
「分かってるけど、何でそんな馴染み方が早えんだよ」
「何か言った?」
「何も言ってねえ」
有紗の腕には、紫音から頼まれていた薬品の包みが抱えられている。
猫を捜しに出ただけだったはずが、帰りには薬品だけでなく、見知らぬ青年まで増えていた。
◇
「猫を捜しに行ったはずですが」
研究室の扉を開けた紫音は、三人の姿を順に見た。
「ルゥは見つかったよ。無事に薬舗へ戻れたの」
「それは何よりです。では、その方は?」
「ルゥと同じ倉庫にいたの。リュシアンさん」
「猫と一緒に増えた」
シャロウが付け加える。
「拾われたつもりはありませんが」
リュシアンは有紗の肩へ腕を回したまま、僅かに頭を下げた。
「リュシアンと申します。突然押しかけてしまい、申し訳ありません」
紫音の視線が、リュシアンの青白い顔から、有紗と触れ合っている腕へ落ちる。
その周囲には、白金色の光が淡く滲んでいた。
「触れている間だけ、症状が和らぐのですか」
「そのようです」
「詳しく確認します。診察室へ」
「薬品は?」
「そこへ置いてください。今は、その方が先です」
「俺たちは猫を返しに行っただけなんだけどな」
「有紗を連れて出た時点で、何か増える可能性は考慮すべきでしたね」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
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