第8話 近づく二人の距離①
「いらっしゃいませ」
「パパ、ママ! ぼく、あの林檎パイが食べたい!」
「旨そうだな。パパもそれにするよ」
「ママはマフィンにしようかしら」
今日も運河沿いの菓子店は、温かな空気に包まれていた。
エレナは家族連れの客に目元を和らげ、微笑ましげに見つめる。
彼らが仲睦まじく手を繋いで帰っていくのを見送ると、ふぅと息を吐いて椅子に腰かけた。
(穏やかな時間だわ。ここにいると、昨日の出来事がまるで夢のようね……)
エレナは昨夜について思いを馳せた。
無事に任務を遂げ、本部へ戻り、総長へすべてを報告したのだが――その直後、驚きの情報がもたらされた。アコナイトによって。
彼は暗殺指令書に使われていた封蝋に違和感を覚え、詳しく調べていた。
その結果――隣国のインメル王国でしか採掘できない鉱物の成分が、封蝋に含まれていたことが判明したのだ。
「……つまり、インメルの何者かが、自国の外交官を暗殺しようとしたってこと?」
「その可能性が高いだろうね。しかもうちの国の貴族を犯人に仕立て上げる用意周到さだ」
誰かに本物の印章が盗まれ、それが暗殺指令書に使われていた。
侯爵は利き手を負傷し文字を書けない状況であったことからも、それは明らかである。
エレナが掴んできた情報と、アコナイトが解析した証拠。
この二つから導き出されるのは、裏で黒幕が糸を引いているということだ。
そしてそれはインメルの関係者である可能性が限りなく高い。
「…………」
この事実に、その場にいた全員が口を閉ざした。
得体の知れない不穏さに、背筋にじとりと汗が滲む。
そこへさらに総長の言葉が衝撃をもたらした。
「実は、お前たちにまだ言っていなかったことがある。……長官から聞いたのだが、先日の密輸事件で押収された武器を調べたところ――インメル経由で持ち込まれた形跡が見られたそうだ」
「……!!」
全員が息を呑んだ。
それはつまり――
「今回の暗殺未遂事件とも関連がありそうだ。どちらの黒幕も、隣国が絡んでいる疑いが濃厚になってきた」
そう口にした総長は、ギリッと歯を食いしばった。
いつも落ち着き払っている彼が、こうも感情を露わにするのは珍しい。
エレナが思わず見入っていると、総長は軽く頭を振り、立ち上がった。
「皆、ご苦労だった。これで任務は終了。次に連絡を入れるまで休みだ。――私は長官へ報告に行ってくる」
重苦しい空気を振り払うようにパンッと手を叩き、総長は足早に部屋を出て行った。
(……あの後、みんなしばらくあの場から動けなかったのよね。珍しく打ち上げもしなかったし)
これまで単体の事件だと思っていた。
なのに、実はそれぞれが繋がっている可能性が出てきた上に、黒幕は隣国かもしれないという。
今までにない規模に、影の精鋭ですら少なからず慄いたのだ。
「……でも、ここにいると、そんな陰謀めいた事件もなんだか現実味がなくなるわ」
菓子店には、いつもと変わらぬ平和な時間が流れている。
衝撃尽くしだった昨夜を引きずっていたエレナも、ようやく今、呼吸ができた気がした。
その時、ふいに店の外から、人々の足音と騒がしい声が耳に飛び込んできた。
窓に近寄り外を見ると、どうやら急に大粒の雨が降ってきたらしい。
(うわぁ、雨足が強いわね。この様子じゃ、もうお客さんは来そうにないわ)
エレナは少し考え、今日はもう店じまいすることにした。
いつもより早いが、その時間を新作のお菓子作りに充てる方が有意義だ。
吊り看板からリボンを外し、入り口の扉に鍵をかける。
陳列していた焼き菓子も片付けた。
そうして厨房へ向かおうとした――その時。
ドンドンドン。
突然、静かな店内に扉を叩く音が鳴り響いた。
驚いて振り返れば、誰かが入り口に立っている。
(えっ、お客さん?)
この雨の中、わざわざ来てくれたのだろうか。
それを追い返すのは、さすがに忍びない。
エレナは厨房へ向かっていた足を引き返し、慌てて入り口へと走った。
ザアッと雨が軒先を激しく叩く音が聞こえてくる。
急いで鍵を外し、扉を開けた。
すると、そこに立っていたのは――シュタルク公爵だった。
昨夜ぶりにその姿を見て、ドキッと胸が跳ねる。
昨夜とは違い、露わになっている公爵の端正な顔は、雨に打たれて濡れていた。
ずぶ濡れというほどではないものの、青銀の髪からはポタポタと水滴が落ち、服もうっすら透けて肌に張りついている。
その姿が妙に色っぽく、思わずエレナは目が吸い寄せられた。
「……悪い、もう閉店だったのか?」
「え? あ、はい。雨が降ってきて、今日はもうお客さん来ないかなと思って」
「なら、私も帰った方がいいか……」
どことなく沈んだ声でそう言われると、罪悪感が募る。
公爵は忙しい合間を縫って、この店まで足を運んできたのだろう。
彼の多忙さはエレナだからこそ、よく知っている。
公爵も昨夜、総長から報告を受けたはずだから、今が一番慌ただしいに違いない。
(それなのに、ここに来るなんて……よほどここのお菓子を気に入ってくれているのね。帰れなんて言えないわ)
エレナは大きく扉を開け、彼を迎え入れる。
視線で入るよう促すと、公爵は少しばかり申し訳なさそうに中へ足を踏み入れた。
「……構わないのか?」
「はい。わざわざ来てくださったんですし、ぜひ食べて行ってください。……あ、その前に拭くものお持ちしますね!」
濡れたままだと体調を崩してしまうかもしれない。
エレナは厨房の棚から乾いた布を取ってきて、公爵へ差し出した。
彼は「すまない」とこぼしながら素直に受け取り、いつもの窓際の席に腰かける。
窓の外に広がる雨模様を見つめ、眉を顰めながら、濡れた髪や服を押さえて水気を拭い始めた。
「体が冷えてると思うので、よろしければ、こちらもどうぞ」
そんな公爵の姿を横目に、エレナは温かい紅茶を淹れると、席へ持って行った。
「何から何まで悪いな。……まさか突然降り出すとは想定していなかった。痛恨のミスだ」
「雨は嫌いって、確か前におっしゃってましたね」
「ああ。……だが、店主が言っていた通り、雨に打たれる運河の景色は風情があるな」
何気なくそう言われ、エレナは少し目を丸くした。
(えっ、私の言葉を覚えてたの? 公爵様が? ……他愛もない会話だったのに)
国家安全保障局の長官ともなれば、記憶力も並外れているのだろうか。
エレナは驚きつつも、ふいに心がふわっと温かくなり、くすぐったい気持ちになった。
「もう店じまいしたようだが、注文はどうすればいいんだ?」
そんなエレナの反応にはまったく気づくことなく、公爵は陳列台に視線を向けた。
いつもはそこに数種類の焼き菓子が並んでいるが、今は何も置いていない。
「ちなみに、今日は何のお菓子が召し上がりたいですか?」
「今日は林檎パイの気分だな。あるか?」
「はい、あります。……あっ!」
林檎パイと聞いて、ふいにエレナは思い出した。
先ほどまで自分が作ろうとしていた新作が、林檎のパウンドケーキだったことを。
(林檎好きの公爵様なら、絶対食いつくんじゃないかしら?)
とはいえ、まだ作り始めていないから、出来上がりまでに少し時間がかかる。
忙しい公爵を待たせてしまうのは申し訳ない。
「どうかしたのか?」
「えーっと、実はですね、店を早く閉めたので今から新作のお菓子作りをしようと思ってたんです」
「新作? どんな菓子なんだ?」
「林檎を使ったパウンドケーキなんです。……お客様、お好きなんじゃないかなぁと思いまして」
チラリと公爵に視線を向ければ、彼は小さく喉を鳴らした。
心なしか漆黒の瞳の輝きが増している。
公爵はティーカップの縁を指でゆっくりなぞると、重大な任務を告げるのかのような面持ちで口を開いた。
「――ぜひ食べたい」
低く威厳のある声には、隠しきれない切実さが滲んでいた。




