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凄腕スパイは甘い嘘を焼き上げる 〜秘密の菓子店を営んでいたら、冷酷公爵様が常連になりました〜  作者: 美並ナナ


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第7話 暗殺容疑者への色仕掛け②

(……堕ちたわね)


一方、ライノット侯爵に近づき、色仕掛けで迫っていたエレナは、心の中でくすっと嗤った。


ここまで計画通り。


好色な彼は、こちらの想像以上にあっさり靡いてくれた。


(それにしても、もし彼が暗殺の真犯人なら、こんなに呑気に夜会になんて出席するかしら?)


話していても、侯爵から危機感は微塵も感じられない。


見知らぬ女に警戒する素振りもなかった。


(……アコナイトの推測通り、彼は誰かに嵌められた可能性が高いかもしれないわね)


侯爵に肩を抱かれながら移動する最中、妖艶な笑みを浮かべながらも、エレナは冷静に状況を分析していた。


その時、ふと体に突き刺さるような視線を感じた。


いやらしい視線はすでに嫌というほど浴びているが、これはそれとは違う。


不自然にならない程度にゆっくり目を動かし、エレナはその出所を探した。


(えっ、うそでしょう……!?)


そして見つけた途端、思わず呼吸が止まった。


視線の主は――シュタルク公爵だったのだ。


入口付近の壁にもたれ、公爵はこちらを探るような目で見ている。


もちろん彼も仮面をつけているが、その体格や顔の骨格、佇まいから、エレナには正体が一目瞭然だった。


(なんでここに……?)


そんな疑問が浮かぶと同時に、エレナはハッとした。


たぶん理由はエレナと同じに違いない。


暗殺犯疑惑のあるライノット侯爵を密かに監視しているのだろう。


(影に任せきりにせず、彼自身も暗殺未遂事件について探りに来たのかもしれないわね)


シュタルク公爵は一見優雅にワインを傾けているように見えるが、仮面の奥の瞳は凍てついている。


容疑者に近づくエレナを怪しんでいる様子だった。


入口に近づき、公爵の目の前を通り過ぎる時は、さすがのエレナも心臓が早鐘を打った。


(大丈夫……菓子屋の店主だと気づかれるはずないわ。ダチュラ製の特殊な変装道具で姿形が全然違うはずだもの)


それなのに、妙にドキドキが止まらない。


今まで経験したどんな潜入任務よりも、正体がバレてしまわないか緊張している。


思わず体が強張り、エレナの腰を抱いていたライノット侯爵が、仮面越しに顔を覗き込んできた。


「もしかして、緊張してるのかい?」


「え? ……ええ、だってこれから貴方様の前で素肌を晒すのかと思うと、気恥ずかしくて」


「ははは、君は妖艶なのに、時として初々しい少女にもなるのだな。なんとも魅力的だ。――早く二人きりになりたい」


そう囁く侯爵は、仮面を被っていても隠しきれないほど、下卑た笑みを浮かべていた。



◇◇◇



「――さてと、ようやく眠ってくれたわね。これで任務に取り掛かれるわ」


ライノット侯爵の邸に到着し、一直線に書斎へ連れ込まれてから数分後。


エレナは長椅子に身を沈め寝息を立てる男を、冷ややかに見下ろしながら、唇の端を上げた。


(まったく、妻がいるのに女を邸に連れ込むなんて最低ね。……でもまぁ、書斎に連れてきてくれたのは助かったわ)


こういう時、普通なら寝室に連れ込まれるものだ。


だが、ライノット侯爵には妻がいる。


当然エレナはその事実を知っていたため、それとなく妻の存在を聞き出し、その上でこう述べた。


――『コソコソ怯えながら抱かれるのは嫌だわ』


艶かしくため息を吐きながらこぼせば、侯爵はこのままでは逃げられると焦ったのだろう。


それなら妻や使用人ですら許可なく入れない書斎なら安全だと、エレナの手を握ってきた。


これはエレナの狙い通りだった。


印章は書斎にある可能性が高い。


こうして、エレナは目的の場所へ労せずとも侵入することができた。


しかしその後は少々骨が折れた。


欲望に目を濁らせた侯爵は、書斎に入るやいなやエレナを長椅子に押し倒そうとしてきたのだ。


(少し焚き付けすぎたかもしれないわね……)


当然、最初からエレナは体を差し出すつもりなんてない。


そのため、ここぞというタイミングで仮面を脱ぎ捨てて艶やかに微笑み、こう言った。


――『ふふっ、お待ちになって。時間はたっぷりありますわ。……この極上の夜に、まずは二人きりで改めて乾杯いたしましょう?」


侯爵の頬をするりと撫でつつ、熱っぽく見つめれば、彼はエレナの言うがままになった。


グラスに酒を注ぎ、二人で飲み始めてからは簡単だった。


指輪に仕込んだ睡眠薬を、隙を見て侯爵のグラスに溶け込ませる。


彼は警戒心がなく、隙だらけだったので、なんなくそれは成功した。


無色無臭の薬は数秒で効力を現し、酒を口にした途端――彼は糸が切れた人形のようにドサリと長椅子に崩れ落ちた。


(さすがダチュラ特製ね。効き目がすごいわ)


そう簡単には目を覚まさないだろう。


心地よさそうな顔をして、侯爵はだらしなく眠りこけている。


(それじゃあ、さっそく印章がありそうなデスクを調べようかしら)


書斎の中でもデスクはひときわ存在感を放っていた。


そちらへ向かおうとして、――ふと侯爵の右手が視界に入り、エレナは足を止めた。


(あれ? 今一瞬、何か引っかかりを覚えたような……?)


妙な違和感にエレナは眉を顰め、侯爵の手をじっくり見やる。


「あっ!」


その刹那、思わず小さな声が漏れた。


(侯爵、右手に包帯を巻いてるわ) 


親指と人差し指の付け根に怪我をしているようだ。


夜会では手袋をしていたため、今までまったく気づかなかった。


(待って……この怪我、いつ負ったの?)


もし暗殺未遂事件の前からだとすれば、利き手を負傷した侯爵に、あの指令書は書けないのではないだろうか。


指令書に綴られた文字は、力強くブレのないものだった。


怪我でまともにペンを握れるか怪しい侯爵が、あの字を書けるとは思えない。


(ますます侯爵は、嵌められた可能性が高くなったわね)


だが、まだ証拠としては弱い。


エレナは静かに身を翻し、音もなくデスクへ向かった。


慣れた手つきで鍵付きの引き出しを解錠し、中を探る。


すると、すぐにお目当ての印章が見つかった。


エレナはそれを手に取り、窓から差し込む月明かりにかざして、細部を観察する。


(……これ、おかしいわ。巧妙に作られた偽物ね)


総長から真偽の見分け方を叩き込まれていたエレナには、一目で違いが分かった。


印章の彫りの深さがわずかに浅く、真鍮の輝きが安っぽい。


さらに裏返すと、長年使われてきた擦れもなかった。


(つまり、本物と偽物がすり替えられたということだわ。――たぶん侯爵は印章が盗まれたことも気づいてないわね)


盗まれた本物の印章が暗殺指令書に使われ、知らぬ間に犯人に仕立てられていたに違いない。


エレナは長椅子で寝こける侯爵に、思わず同情めいた眼差しを送った。


ただ彼も彼で脇が甘すぎるという失点がある。


多少可哀想には思うが、自業自得だ。


(私みたいな色仕掛けをしてくる女に、ころっと騙されたんじゃないかしら)


そう思っていたら、案の定、実際それが当たりだったようだ。


別の引き出しから侯爵の私的な日記を見つけたエレナは、何か新たな情報を得られるかもと目を通してみた。


そこには、彼の怠惰な日々が赤裸々に綴られていた。


書斎へ女を連れ込んだ日の記録まで残されている。


しかも日付は、暗殺未遂事件が起こる少し前。


どう考えても、この女の仕業だろう。


(盗むだけが任務だったのか、暗殺未遂にも関わっているのか……そこまでは分からないわね。でも第三者が関与してるのは確定だわ)


――ライノット侯爵は白。


それが今回の任務を経て、エレナが導き出した結論だ。


目的さえ遂げれば、もうここに用はない。


静かに書斎を後にし、人目を掻い潜って邸から抜け出す。


そうして予定通り、物陰でヘムロックと落ち合った。


「……どうだった?」


「標的は白。犯人ではないわ」


「……それなら暗殺不要。任務は終了だね。本部へ戻ろうか」


「ええ、総長へ早く報告した方がいいわね」



二人は闇夜に紛れ、姿を消す。


足音ひとつ立てずに駆け、本部へと急いだ。



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