第9話 近づく二人の距離②
「ただ今から作るので少し時間がかかるんですけど……大丈夫ですか? きっとお忙しいですよね?」
「時間は問題ない。普段から働き詰めだからな。少しくらい構わないだろう。私にも息抜きは必要だ」
公爵は、自分が何の仕事をしているのかは口にしなかった。
エレナもあえて深く訊ねず、微笑みながら「そうですか」とだけ返した。
この店では、ただの店主と客。
だからこそ、仕事の話題だけは意識的に避けるようにしていた。
(この店に仕事は持ち込まない。穏やかで居心地のいい空間にしたいもの)
たとえ公爵が常連になろうとも、エレナにとってここはホッとひと息つける場所だ。
それを壊したくないという思いが強かった。
「それでは今から作り始めますね。しばらくこちらの席で、ゆっくりされていてください」
「ああ、分かった」
エレナは公爵を店内にひとり残し、厨房へと向かう。
エプロンをつけ、手を洗い、さっそく調理にとりかかった。
まずは林檎を包丁で小さく角切りにしていく。
バター、砂糖、卵、薄力粉を混ぜ合わせ、最後に林檎を加える。
それを型に流し込み、石窯で焼けば完成だ。
(うん、なかなかいい感じに出来そうかも!)
窯の中を眺めながら、エレナは満足げに腰に手を当てた。
「いい香りがしてきたな」
「ひゃっ!?」
その時、急に背後から声がかかった。
お菓子作りに集中するあまり完全に油断していたエレナは、素っ頓狂な声を上げる。
慌てて振り返ると、公爵が興味深そうに厨房を覗き込んでいた。
(ビックリした。……ていうか、公爵様の足音しなかったんだけど)
人の気配には人一倍敏感なはずなのに、エレナはまったく気づかなかった。
今も心臓はバクバクと騒がしく脈打っている。
「……お、驚きました。どうされたんですか? もしかして香りにつられて?」
「いや。どちらかというと、鼻歌につられてだな」
「鼻歌!?」
そう言われて初めて、エレナは自分が無意識に鼻歌を口ずさんでいたことを知った。
お菓子作りをしながら、ずっと歌っていたらしい。
今まで作る時はひとりだったから、まったく気づかなかった。
(は、恥ずかしい……)
穴に入りたいほどの羞恥心が込み上げてくる。
「……それにしても、すごいな」
公爵は近づいてくると、ある一点に視線を止め、呆れが混じった声で小さくつぶやいた。
彼の視線の先――そこには調理道具が乱雑に積み上がっている。
(ううっ、……か、重ね重ね恥ずかしい……!)
実はエレナ、片付けが苦手だった。
洗い物を先延ばしにしてしまいがちで、お菓子作りの後は毎回厨房が荒れ果てる。
そんな場面を目撃されてしまい、頬が熱くてしかたない。
「えっと、その、これは……見なかったことに、してくださいませんか?」
「意外だな。店内は綺麗に保たれているのに」
「お客様の目につくところですから。あ、厨房は散らかってますけど、清潔さには注意しているのでご安心くださいね……!」
「ふっ」
この失態で店の信用を落としてなるものかと、エレナは慌てて言い繕った。
すると、公爵は口元を手で覆うと――堪えかねたように笑い声を漏らした。
(えっ、吹き出した……!?)
好物の菓子を前にする時に、公爵がほんのり唇に笑みを浮かべる姿は何度も目にしている。
けれど、声を上げて笑う姿は初めてかもしれない。
思わずエレナは恥ずかしさも忘れ、彼の顔をじっと見つめてしまう。
(公爵様って周囲に恐れられてるけど……こうして見ると、やっぱり整った顔立ちよね。それに今日はいつもより雰囲気が柔らかい?)
ただの気のせいかもしれないが、目元が和らいでいるように見える。
そんなふうに見入っていたら、ふと目が合った。
黒水晶のような瞳から目が離せなくなる。
次の瞬間、ふいに公爵の手がエレナに向かって伸びてくる。
(なに……?)
そう思った刹那、彼の親指が頬に触れ、するりと肌を滑った。
「白い粉がついてた」
「え? あ、すみません」
お菓子を作ってる最中に、どうやら薄力粉が頬に飛んでしまっていたようだ。
それに気づき、拭ってくれたらしい。
(あ、ありがたいんだけど……でも、どうしよう。胸のドキドキが止まらない! 私、おかしいわ……!)
キュンと甘く胸が締めつけられ、じわじわと顔が赤くなる。
先ほどまでとは、まるで違う恥ずかしさだった。
エレナは思わず公爵の視線から逃れるように背を向けた。
「あの、そろそろ焼き上がると思いますから、お席でお待ちください。持って行きますので!」
窯を覗き込み、焼き具合を確かめ、そう口にする。
公爵は「分かった」と応じ、素直に店内へ戻っていく。
彼の姿が見えなくなると、エレナは大きく息をはいた。
(私、一体どうしちゃったんだろう……!?)
心当たりがあるとすれば、頬に触れられたことだろうか。
でもあれは、ほんの一瞬だった。
しかも、わずかに指が触れただけだ。
(これくらいの接触なら、任務では何度も経験してきたじゃない。今さらなのに)
異性との触れ合いなど、色仕掛けを得意とするエレナにとってごく当たり前。
動揺することではない。
なのに、なぜ……と考えて、ハッとした。
(よく考えれば……『ベラドンナ』としては慣れていても――『エレナ』では初めてだわ)
そう、任務が絡まない状況で、エレナは異性への免疫がなかった。
こんな軽い接触ですら、心を揺らしてしまうほどに。
明らかに、公爵を異性として意識し始めている――エレナはその事実を悟った。
なにしろ彼は噂と違って意外と紳士的だ。
作ったお菓子を美味しそうに食べてくれる。
他愛ない話をするのも楽しいし、ここで彼と過ごす時間は思いのほか心地いい。
(ダメ、ダメ、ダメ! いくら好感を持っていても、相手は公爵様よ。影に任務を下す立場の人なんだから!)
諜報員のエレナとは立場が違いすぎる。
本来、顔を合わせることすら叶わない相手だ。
(大丈夫。ただ私生活で異性に慣れていないだけ。……そう、それだけよ)
常連のひとりとして好感を持っているだけだと、エレナは自分に言い聞かせた。
そうして心を落ち着かせ、ちょうど焼き上がった菓子を切り分ける。
「お待たせしました。新作の林檎のパウンドケーキです。焼きたてなので、ぜひ早めにお楽しみください」
公爵の座る席へと持って行く頃には、平常心を取り戻し、いつも通りの微笑みを浮かべた。
甘く香ばしい香りがふわりと店内に広がる。
公爵は目の前のパウンドケーキをじっと見つめた後、ゆっくりとフォークを入れ、口に運んだ。
「お味はいかがですか?」
「美味い。生地がしっとりしていて、甘さも上品だ。小さな林檎の食感もいい。……癖になりそうだ」
「林檎パイとどちらがお好みです?」
「……それは難問だ。それぞれ違う良さがあるから選べないな」
こんなに美味しそうに食べてもらえると、こちらまで幸せな気持ちになる。
エレナは自然と唇に弧を描いていた。
だが、その穏やかな空気は、次に彼が発した言葉で一変する。
「――そういえば、昨日は休みだったんだな」
そう言われた瞬間、エレナはまるで突然冷や水をかけられた心地になった。
否応なく、昨夜の任務が脳裏に蘇り、公爵との関係を思い知らされる。
「昨日も来たが営業してなくて残念だった」と語る公爵の言葉をぼんやり聞き流しながら、エレナは必死に笑顔を維持した。
変な反応を見せてはいけない。
彼に諜報員だと気づかれるわけにはいかないのだ。
「……わざわざ来ていただいたのに、すみません。ですが、もともとこの店は不定期営業ですので」
「ああ、それは分かっている。ただ、開いていない時を見たのが初めてだったから、なぜか少し驚いた」
「お客様は、たまたま開いてる時に来られてましたもんね」
「つまり、運がよかっただけ?」
「ええ。たぶんそうです。今後はより運試しになるかもしれません。――休みの日が増えると思うので」
エレナは最後の一言を、そっと目を伏せて口にした。
まだはっきりとは分からない。
それでも、予感だけはひしひしと感じている。
きっと任務は増えるだろう。
そしてその命令を下す人こそ――目の前の彼なのだ。
二人の間に奇妙な沈黙が落ちた。
視線を外し、ギュッと手を握りしめるエレナ。
手にしたフォークの先を、無言で見つめるジークヴァルト。
同じ沈黙の中にいても、二人の胸にはそれぞれ違う想いが渦巻く。
窓の外では、しとしとと雨が降り続いていた。




