第10話 好意の自覚と陰謀の影①
ジークヴァルトは、菓子を口に運びながらも、先ほどからどこか上の空だった。
仕事を終わりに邸宅で甘い菓子に舌鼓を打つ時間は、一日の中で最も至福のひとときだ。
しかも今食べているのは、好物である林檎をふんだんに使ったパウンドケーキである。
普段のジークヴァルトならば、険しい顔を崩して頬を緩めていたことだろう。
「ジーク坊ちゃま、どうかなさったのですか?」
この異変にいち早く気づいたのは、シュタルク公爵家に長年勤める老齢の家令だった。
ジークヴァルトを幼い頃から知る家令は、主の甘い物好きな一面を知る数少ない者だ。
これまで菓子の買い出しを任されていたのも、この家令である。
しかしここ最近、ジークヴァルトは自ら菓子を購入して来るようになった。
今日も数日前にジークヴァルトが持ち帰った林檎のパウンドケーキを書斎に持ってきたのだが、なにやら様子がおかしい。
普通の使用人ならば、恐ろしくて気軽には声などかけられない。
しかし、そこはさすが長年仕えている家令だ。
まったく動じることなく、彼はごくあっさりと疑問を口にした。
すると、ジークヴァルトの眉根の皺がさらに深くなり、露骨に渋い表情を浮かべる。
「……爺、坊ちゃまはやめてくれ。私はもう二十七だ」
「ふぉっほっほ。私にとっては、いつまでも甘い物好きなお可愛らしいジーク坊ちゃまのままですよ。世間では怖いのなんだの言われておられますが、それが不思議でなりませんな」
「そんなことを言うのは、爺と乳母のマアサくらいだ……」
「昔の坊ちゃまは、もっと感情豊かでいらっしゃったのに。立派にご成長なさるとともに、常に険しい顔になられて、爺は寂しいですよ。今では好物の菓子を食べる時くらいしか、昔の面影が見られませんからな」
「仕方ないだろう? 国家安全保障局の仕事は、一瞬たりとも気が抜けない。……父上とて、存命の頃は私と同じだっただろ」
「ええ、お仕事柄であることは、長年シュタルク公爵家に仕える家令としてよくよく存じ上げておりますとも。ただこの老ぼれは、つい願ってしまうのですよ。――そんなジーク坊ちゃまにこそ、心を許せるお方が側にいらっしゃればと」
「…………」
ジークヴァルトは思わず言葉に窮した。
彼が言い負かされるなど、滅多にないことである。
冷酷無慈悲と名高い彼も、実の祖父のように近しい関係のこの家令の前では形無しだった。
「して、ジーク坊ちゃま。なぜそんなに心ここに在らずな様子なのですかな?」
「……別にそんなことはない。爺の気のせいだ」
「おや? 私の目を誤魔化せるとお思いで? ――もしや、どなたか気になる方でもできたのですか?」
「……ッ」
「これはなんと! 勘で申し上げたに過ぎなかったのに、当たってしまったのですかな。それで坊ちゃま、そのお方とはどんな――……」
「ウォルター、もう用は済んだだろ。私は書斎で仕事をする。一人にしてくれ」
延々と話しかけてきそうな家令に、ジークヴァルトはついに根を上げた。
公爵家当主らしい威厳を込めて、家令の名を呼ぶ。
それでもなおその場に留まろうとするウォルターをなんとか追い出し、ようやくジークヴァルトは椅子に深く身を沈めた。
(……まったく、爺には困ったものだ。遠慮のかけらもない)
うんざりと息を吐き出しながらも、ジークヴァルトは分かっていた。
こんなふうに自分に接してくれる人間は、非常に稀であり、貴重な存在であると。
そう思った刹那、ジークヴァルトの脳裏にはひとりの女がよぎった。
(爺ほど遠慮がないわけではないが……あの店主も、普通に接してくれる一人だな)
そう、旧市街の運河沿いにある菓子屋の店主である。
実際、先ほど「気になる方」と言われて、ジークヴァルトが思い浮かべたのが――彼女だった。
いや、正確には、ジークヴァルトはその前からずっと彼女のことを考え続けている。
菓子を食べながら上の空だったのも、「心を許せる方」と言われて脳裏に描いたのも、すべて店主の顔だった。
(あの雨の日からもう数日が経つのか……)
突然の雨に降られたあの日。
閉店した店内で彼女と二人で過ごした時から、ジークヴァルトは自分でも異変を感じていた。
なぜか彼女のことが頭から離れない。
鼻歌を口ずさみながら、楽しそうに菓子作りをする姿。
乱雑に積み上げた調理道具を見られて、バツの悪さに頬を染める表情。
頬に粉つけたまま、まったく気づかない抜けたところ。
焼きたての新作菓子を提供する時の、とろけるような笑顔。
あの日の彼女の些細な仕草や表情が、繰り返し頭の中に蘇る。
(この感情が何なのか、この手のことに縁がなかった私でも、さすがに分かる……)
事ここに至って、ジークヴァルトは察し始めていた。
自分は彼女に――異性として惹かれているのだと。
最初は、菓子が気に入っただけだった。
ジークヴァルト好みの品揃えと味だったため、「またあの店に行こう」と足を運んだ。
そして二回目の来店時に、喫茶を利用し、焼きたての菓子の美味さの虜になった。
それを機にあの店に通うようになり、次第に菓子だけでなく、いつしか居心地のいい空間に魅了されている自分がいた。
あの場では、菓子が好きなことを隠す必要がない。
その上、店主は余計な詮索をしてこず、適当な距離感を保ってくれる。
しかも、店主との他愛ない会話は、驚くほど楽しく感じられた。
ほんのひと時、重い肩書きも政務も忘れられ、ジークヴァルトは堪らなく心が落ち着いたのだ。
途中からは、菓子よりも、むしろあの居心地のいい空間を求めて通っていたように思う。
(……だが、その認識もあの雨の日に変わってしまったな)
ジークヴァルトは無意識に窓の外を眺め、静かに息を吐いた。
あの日、ジークヴァルトは店主の素を見た気がした。
いつも柔らかに微笑み接してくれる彼女が、鼻歌を口ずさんだり、抜けた姿を見せたり、頬を赤らめたり……いつもとは違う一面を覗かせていた。
それを目にした瞬間、ジークヴァルトの中で、『店主』が『ひとりの女性』へと変化したのだ。
ああ、この人も普通の女性なのだ――そう思うと急に異性として意識してしまった。
(結局、あの空間が心地いいのも……彼女といるからなんだろうな)
そう気づいてしまってからと言うものの、彼女自身のことが気になって仕方ない。
よく考えれば、ジークヴァルトは店主のことをまったく知らないのだ。
それこそ、名前すら知らない。
ただ、安易に踏み込むのは憚られる。
なにしろ彼女は、身分や、肩書き、仕事などジークヴァルトの個人的なことをまったく聞いてこない。
そういう彼女が好ましく、だからこそあの店にいると落ち着く手前、ジークヴァルトの方からそれを破るのは気が引ける。
今後は休みの日が多くなるかもと聞いて、「彼女は普段何をしてるのだろう」と非常に気になったが、なんとかグッと耐えたくらいだ。
(知りたい。でも聞けない……)
彼女への好意に気づいてから、ジークヴァルトはそんなもどかしさを抱えていた。
「……名前を訊ねるくらいは、許容範囲ではないか?」
ジークヴァルトは林檎のパウンドケーキにフォークを入れながら、ぽつりとつぶやく。
好物の菓子を味わううちに、次第にその思いは固まっていった。
◇◇◇
「ジーク、その後どうだ。密輸事件と外交官暗殺未遂事件の黒幕は見つかったか?」
「……いえ、総力を上げて追っておりますが、まだその正体には辿り着けておりません。影ですら尻尾を掴めない以上、相当な用意周到さが窺えます。――只者ではないでしょう」
王城中枢部の最奥に位置する御前会議室。
大きな楕円形の会議卓には、国王を中心に、王太子、宰相、外務大臣、財務大臣、軍務大臣、そして国家安全保障局長官ジークヴァルトが着席していた。
国の行末を左右する議題だけが交わされる、バスティア王国最高意思決定の場である。
今この場で話し合われているのは、先ごろ起きた事件についてだった。
「そうか……。黒幕がインメルと決めつけるのは早計だが、とはいえ関係者である可能性は極めて高いからな。向こうさんとの付き合いを改めるべきか悩ましい」
ジークヴァルトのみならず、他の者の報告にも耳を傾けた国王は、精悍な顔を厳しく歪める。




