第5話 気苦労が絶えない冷酷公爵②
品数こそ多くないが、好みに合う菓子が揃っていた。
特に林檎パイがある点は、それだけで評価に値する。
悩みに悩んで四つに絞り、注文したところ、店主の若い女は多少面食らっていたようだった。
だが、特に不快な視線を向けてくることはなかった。
終始にこやかな笑顔を浮かべ、感じよく対応してくれたのが印象深かったくらいだ。
店を出た後は、その足で邸宅に帰り、さっそく購入した菓子を堪能した。
最初は林檎パイだけのつもりだったのに、思った以上に美味く、手が止まらない。
結局すべてを平らげてしまった。
(……旨い。もっと食べたい)
その欲求に突き動かされ、気づけば四日後にまたジークヴァルトはあの店を訪れていた。
不定期営業と聞いていたが、幸いにして開店しており、お目当ての菓子を手に入れられた。
意気揚々と注文した直後、ふと背後にささやかな席があるのが視界に入る。
もしや、あそこで食べられるのではないかと思い至り、急遽予定を変更して、喫茶席を利用することに決めた。
今思えば、よく自分はその決断をしたものだと思う。
平民とはいえ、人前で甘味を食べるのは、ジークヴァルトにとって心理的なハードルが高いのだ。
(だが、その決断が結果的に正解だった。温かい菓子があれほど旨いとは)
店主が用意してくれた林檎パイは、焼きたてと言って過言でないくらいホカホカだった。
バターと林檎の甘い香りが鼻腔をくすぐり、思わずだらしなく頬が緩みそうになった。
パイにフォークを入れると、サクッと耳に心地いい音が鳴る。
口の中では甘酸っぱい林檎と濃厚なカスタードが絶妙に溶け合い、心が満たされていく。
まさに幸せのひとときだ。
ひとりで悦に入っていると、ジークヴァルトはふと横顔に視線を感じた。
そちらに顔を向ければ、店主がやたらと熱心に自分を見つめていた。
不躾に見つめられ、眉がわずかに寄る。
つい咎めるような口調で彼女を詰ってしまった。
(ただでさえ、険しい表情で怖いと言われるのに、……こんな言い方をすれば泣かれるのではないか)
そう危惧したものの、意外なことに店主はジークヴァルトを恐れはしなかった。
自分の無作法を恥じ、顔を赤くしただけだったのだ。
その時になって初めて、ジークヴァルトは興味を引かれ、彼女の顔をまっすぐ見た。
今さら気づいたが、店主は目を引く美貌の持ち主だった。
年齢はおそらく二十歳前後だろうか。
この若さで自分の店を切り盛りしているとは、大したものだ。
じっと観察していると、店主はバツの悪そうな顔をして、「自分が作った菓子を誰かが食べている姿が新鮮でつい見てしまった」と言う。
その言葉に嘘は感じられない。
聞けば、ここの菓子はすべて店主の手作りだそうだ。
話の流れで感想を聞かれ、ジークヴァルトは一瞬だけ口ごもった。
(自分のような男が菓子の感想など口にしたら、変な目で見られないだろうか)
とはいえ、もう今さらな気もした。
この店主なら特に何も思わないのではないかという直感もあった。
だからジークヴァルトは思い切って、率直に思っていることを口にしてみた。
すると彼女は唖然としてしまった。
だが、やはり変な目を向けてくることはなく、あまりに具体的な感想で驚いているという様子だった。
(……この店なら、甘いものが好きなことを隠さなくても良さそうだな)
それどころか、ここなら焼きたての温かい菓子を楽しめる。
実に良い店を見つけたと、ジークヴァルトは内心で喜んだ。
その日から、度々仕事の合間を縫って、息抜きがてら菓子店を訪れるようになった。
ジークヴァルトは毎回喫茶席を利用していたため、自然と店主とも言葉を交わす機会が増えた。
「お客様、そのカヌレのお味はいかがですか?」
「外はカリッと香ばしく、中はもっちりとしていて、食感が癖になるな。ラム酒とバニラの芳醇な香りも見事だ」
「こちらは通常のカヌレに茶葉を練り込んだものなんですけど、おひとついかがですか?」
「注文してないが、いいのか?」
「はい、サービスです。ぜひ感想を聞かせてください」
こんなふうに彼女はいつもジークヴァルトに感想を訊ねてくる。
菓子の感想を誰かと話すなど、今までなら考えられないことだったが、この店でなら気負う必要がなかった。
時には菓子以外の話題を話すこともあった。
「このところ、お天気が優れませんね。お客様が来られる時、雨は大丈夫でしたか?」
「ああ、確かに厚い雲が空を覆っていたな。帰る頃には降るかもしれない」
「そうですか。もし傘をお持ちでなければ、お貸ししますよ」
「それは助かる。……正直、雨は嫌いだ」
「濡れると面倒ですもんね。でもここの窓から見る、雨の日の運河は情緒があって、なかなか素敵ですよ」
店主との会話は、どれも他愛ないことばかり。
菓子の話、天気の話、本の話など、肩の力を抜いて話すような内容しかお互い口にしなかった。
彼女からジークヴァルトの素性や仕事を訊ねてくることもない。
その距離感が思いのほか心地いい。
(誰かとどうでもいい話をするなど、思えば初めてかもしれないな)
そもそもジークヴァルトと気軽に話そうと思う者など周囲にいない。
人と話すのは、何か目的がある時ばかりだ。
そしてそのほとんどが仕事のことである。
国家の安全を守る仕事だけに、必然的に深刻な内容になる。
感情を殺して国益を優先することが大事だ。
時には情け容赦なく、非情な判断さえ下さねばならない。
(幼い頃から訓練されてきたから、それが普通だったが……他愛ない会話というのは気楽でなかなかいいものだな)
ジークヴァルトは次期公爵および次期国家安全保障局長官として、物心ついた頃から父親に厳しく躾けられてきた。
「弱みを見せるな」
「感情で判断するな」
「お前が国を守るんだ」
こんな言葉を繰り返し刻まれ、常に完璧を求められたのだ。
その結果が今のジークヴァルトである。
父親が早くに亡くなり、二十歳そこそこで公爵家当主となり、二十四歳で長官にも就任した。
若さを理由に侮られまいと、ずっと気を張って過ごしてきた。
甘いものを身体が欲するようになったのも、この頃からだ。
胃薬も、今では手放せない。
そんなジークヴァルトが、あの菓子店では久々に穏やかな気持ちでいられた。
◇◇◇
「……仕方がないとはいえ、暗殺命令まで出してしまったな」
ソファに身を沈めながら、ジークヴァルトは自身が今しがた総長に告げた言葉を思い返した。
国益を優先するならば妥当な判断だ。
もしライノット侯爵が本当に暗殺を企んだ犯人ならば、生かしておくわけにはいかない。
事故で死んだとなれば、インメル王国に引き渡す必要もないし、他に主犯を仕立て上げることもできる。
外交問題の回避、そして関係性の悪化を防ぐことが何より重要だ。
(……あとは影に任せておくしかないな。ベラドンナなら早急に任務を遂行してくれるはずだ)
あらゆる場所へ潜入し、誰にでもなりすます。
相手が誰であろうと手玉に取り、情報を掠め取ることができる凄腕の諜報員。
それが影のエース・ベラドンナだ。
会ったことはないが、彼女の仕事ぶりは書類上でよく知っている。
風の噂によると、妖艶な美女だそうだ。
ライノット侯爵は好色な男だったはずだから、きっとベラドンナにはうってつけな相手だろう。
(任務の報告がくるまでには数日はかかる。しばらく忙しくなりそうだから、今のうちにあの店で菓子を堪能しておくか)
そう思い立ち、ジークヴァルトは執務室に戻った。
集中して溜まっていた書類を処理すると、早々と王城を後にする。
はやる足で運河沿いの店に向かったのだが……
その日、赤いリボンは結ばれていなかった。
それは――ジークヴァルトが初めて知る、店の休業日だった。




