第4話 気苦労が絶えない冷酷公爵①
――トントントン……
硬い音が執務室に響く。
先ほどからジークヴァルトは、眉間に皺を刻みながら、人差し指で机を規則正しく叩いていた。
(厄介なことになったな)
ただでさえ周囲を恐れさせる彼の気配が尖り、同じ部屋にいた部下たちは顔を青くする。
これ以上長官の機嫌を損ねまいと息を潜めた。
そんな中、副長官が恐る恐るジークヴァルトに声をかける。
「……シュタルク長官、影の総長がお見えです」
その途端、ぴたりと音が止んだ。
「分かった」
ジークヴァルトは軽く頷くと、静かに立ち上がる。
その足で、防諜対策の施された応接室へ移動した。
中に入ると、革張りのソファにひとりの男が座っていた。
黒髪に白いものが混ざり始めた、落ち着きのある初老の男だ。
隙のない佇まいは、まるで有能な執事を思わせる。
だが、その眼光は相手を怯ませるほど鋭い。
(やはりこの男を前にすると気が引き締まるな)
彼が総長の座に就いて、かれこれ十六年が経つ。
その間、常に第一線で陰から国防を担ってきた歴戦の諜報員だ。
ジークヴァルトは国家安全保障局の長官となって、まだ三年ほどである。
その三年の間ですでに、この役職の重さを十分に実感していた。
統括する立場と、任務を実行する立場という違いはあれど、目指すところは同じ――国の安全を守ることだ。
その点からジークヴァルトは命令を下す立場ではあるが、長年の経験がある総長を尊重していた。
(しかも彼は、伯爵家の出身だ)
ごく一部の者にしか知られていないが、総長は元貴族だ。
三男として生まれ、自分の身を立てるため、以前は王族の護衛騎士を務めていたと聞く。
(護衛騎士から諜報員に転身した理由は知らないが……いずれにしても、かなりの手練れだ)
そんなことを思いながら、ジークヴァルトは総長の向かい側のソファに腰を下ろした。
「シュタルク長官、今日はどのようなご用件で? 新たな任務ですかな」
「ああ、悪いな、王城まで来てもらって。また面倒な案件が起きた。影に動いてもらいたい」
「ふむ、武器密輸事件を片づけたと思えば、今度は別件ですか。……ここのところ国内が騒がしい。実に嘆かわしいことだ」
総長がやれやれと肩をすくめる。
その様子を見やりながら、ジークヴァルトは先日の密輸事件を思い返した。
あれは当初の想定を何度も覆された厄介な事案だった。
最初はただの反体制グループの暴動だと思っていたのだが、拘束された奴らが軍用クロスボウを所持していたことで風向きが変わったのだ。
「軍用の武器が一般に流通してるのは大問題だからな。しかも、あんな下っ端の奴らにまで入手できるなど、看過できない事態だった」
「そうですな。流通ルートを探れという任務は、骨が折れましたよ。軍からの横流しを疑うことから始まり、闇商会に辿り着くまで結構な時間を要しましたからな」
「十分な証拠を集めてくれて感謝している。おかげで闇商会は摘発できた。これで武器の流出は止められたはずだ」
「……その商会へ出資していた者は?」
「まだ掴めていない。――ただ、密輸された武器を調べたところ、インメル王国経由で持ち込まれた形跡が見られた」
「インメル……」
ジークヴァルトが最近発覚した内容を告げると、総長はあからさまに顔を顰めた。
インメル王国は、バスティア王国と国境を分かつ地続きの隣国だ。
友好国のひとつであり、表立った対立はない。
しかし二十二年前には水面下で緊張状態にあったと、当時を知る国王や亡き父からジークヴァルトは伝え聞いていた。
「……では次の任務というのは、その謎の出資者の正体と、インメルの関与を探ることですかな?」
「いや、任務は別件だ」
「別件ですと? それはなぜに?」
「我が国に駐在しているインメルの外交官が――暗殺未遂に遭ったからだ」
それは昨夜のこと。
夜会からの帰り道に、外交官が襲われるという事件が起きた。
幸いにも命は無事だったが、これはもはや深刻な外交問題である。
しかも現場からは、我が国の貴族の印章が入った暗殺指令書が見つかった。
「……なるほど、それでインメルから犯人の引き渡し要求が入ったと?」
「ああ。だが、外務大臣に交渉を頼み、それは待ってもらっている」
「なぜですかな?」
「あまりにもタイミングが良すぎないか? それにあの侯爵に、周到な工作ができるとは到底思えない」
「ふむ。つまりシュタルク長官は、何者かがその貴族の仕業に見せかけたのではないかと、お考えなのですな?」
ジークヴァルトは重々しく頷いた。
謎の出資者の正体を探りたいのは山々だが、今回はインメルを待たせている以上、早急に対応する必要があった。
「――暗殺を企んだ容疑者のライノット侯爵を秘密裏に探ってくれ。本当に彼が主犯なのか、その証拠を掴んでほしい。……そしてもし黒ならば――事故に偽装して殺せ」
総長をまっすぐ見据え、ジークヴァルトは静かに命令を下す。
彼は胸に手を当てると、恭しく首を垂れた。
「ご命令、承りました。今回は急ぎのようですから――うちのエース・ベラドンナを向かわせます」
「ベラドンナか。ならば問題ないな。任務の手段と方法は総長に一任するから頼む」
「お任せください」
音もなく立ち上がると、総長は静かに部屋を去って行った。
応接室にひとりになると、ジークヴァルトは体から力を抜き、ソファに深くもたれかかった。
(……ああ、甘い菓子が食べたい)
険しい顔のまま、脳裏に浮かんだのは好物の甘味だった。
とはいえ、部下たちもいる執務室で食べるのは憚られる。
ジークヴァルトは自分が周囲にどう思われているのかを、正確に把握していた。
冷酷無慈悲。
血も涙もない。
暗殺命令すら平気で下す。
国益しか見ていない。
おそらくこんな印象のはずだ。
その上、公爵家当主という高い身分もあるため、周りが自分を恐れていることにも気づいている。
顔立ちだけなら悪くないと言われることもあるが、それを補って余りあるほど「怖い」という印象が強いらしい。
そんな男が甘ったるい菓子を頬張っていたら、どんな目で見られるか。
(不気味そうな視線を向けられるだろうな……)
それが分かっているから、ジークヴァルトは決して人前で菓子を食べない。
だが、そんな彼に最近例外ができた。
(……運河沿いのあの菓子店に行きたい)
◇◇◇
思い返せば、その店と巡り合ったのは本当に幸運だった。
ジークヴァルトは幅広く情報を集めるため、影とは別に、一般人の情報提供者も抱えている。
そのひとりと、あの日、たまたま旧市街の運河沿いの橋の下で密会していた。
そして帰り道に、ふと心くすぐる甘い香りが鼻を掠めた。
思わず香りに誘われて辿っていき――見つけたのがあの店だったのだ。
ほぼ衝動的に、気づけば店内へ足を踏み入れていた。
中に入ってから「しまった」と思ったが、今さら遅い。
けれど、ジークヴァルトはふと思った。
ここは旧市街、つまり平民の住宅街だ。
いくら公爵家当主であり国家安全保障局長官とはいえ、自分を知る平民などそうはいないだろう。
しかもこの時、ジークヴァルトは目立たないよう平民の服を着ていた。
密会が目的だったため護衛もつけていない。
(相手が平民なら利害関係もない。それならば、どう思われるかなど気にする必要ないのでは……?)
瞬時にそう導き出し、ジークヴァルトは割り切ってこの店で菓子を買うことに決めた。
実は自分で菓子を購入するのは初めてだった。
いつもは家令や乳母など、幼少期からジークヴァルトを知るごく身近な者に入手を頼んでいたからだ。
(自分で選んで買うというのは新鮮だな。どれも旨そうでなかなか悩ましい)




