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凄腕スパイは甘い嘘を焼き上げる 〜秘密の菓子店を営んでいたら、冷酷公爵様が常連になりました〜  作者: 美並ナナ


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第2話 不定期営業の菓子店

バスティア王国の城下町、その旧市街。


賑やかな商業区とは違い、ここには穏やかな時間が流れていた。


運河沿いはレンガ造りの建物が並び、静かに木々がそよぐ。


行き交う人々は老若男女さまざまだ。


陽だまりに憩うお年寄り。

道端で井戸端会議を繰り広げるご婦人。

明るい声を上げてはしゃぎ回る子ども。


誰もが気さくに声を掛け合い、平民の住宅街らしい光景が広がっている。


そんな旧市街の運河沿いに、ひっそりと佇む小さな菓子店があった。


目印の吊り看板には、焼き菓子の意匠が彫り込まれている。


「あっ、ねぇママ! あの菓子店、今日は開いているよ!」


「あら、本当ね。せっかくだから、何か買っていこうかしら」


その吊り看板に赤いリボンが結ばれているのを見て、一組の親子が嬉しそうな声を上げた。


二人は手を繋ぎ、弾むような足取りで店の扉を開く。


――カラン、カラン。


小さなベルの音が静かな店内に鳴り響いた。


「いらっしゃいませ」


この店の店主が笑顔で親子を出迎える。


アッシュブラウンの髪をひとつに束ねた、若く美しい女性だ。


つい先ほどまで菓子を焼いていたのだろう。


彼女からはふわりと甘い香りが漂っていた。


小ぢんまりとした店内には、手づくりの焼き菓子が数種類並んでいる。


きつね色に焼き上がった品々は、素朴な見た目ながらどれも実に美味しそうだ。


「エレナさん、こんにちは。しばらくぶりの営業ね。待ち遠しかったわ」


「そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」


この店は不定期で営業していたが、この近辺の人々には親しまれていた。


営業を報せる赤いリボンを今か今かと楽しみにしている人も多い。


この親子も何度目かの来店だった。


「今日はどれになさいますか?」


「苺のタルトはあるかしら? この子が気に入ったみたいなの」


「もちろんありますよ。あと、今日はこちらのカヌレもおすすめです! 茶葉を練り込んだので、香りも楽しめますよ!」


「まぁ、とても美味しそう! そちらも三ついただくわ」


店の一角には四席ほどの喫茶の場も設けられている。


けれど近所の人は持ち帰ることが多く、使われることはあまりない。


店主のエレナは慣れた様子で焼き菓子を箱に入れ、母親へと手渡した。


「ありがとうございました」


再びベルが鳴り、親子が笑顔で帰っていく。


その後ろ姿をエレナは頬を緩めて見送り、店内に誰もいなくなると、両腕を天高く突き上げた。


「やっぱり、最っ高だわ! 人を幸せにできるって!」


そのままつま先立ちになり、天を仰いで満面の笑みを浮かべる。


エメラルドグリーンの瞳はキラキラと輝き、溢れんばかりの喜びに満ちていた。


「誰も騙さずに、美味しいお菓子を届ける――菓子屋の仕事って、なんて素敵なの!」


そう言いながら、エレナは軽やかな足取りで、厨房へと向かう。


不思議なことに、どれほど楽しげに弾もうとも、いっさいの足音がない。


そう、菓子店を営むエレナこそ――影のエース・ベラドンナの表の姿だった。


エレナは任務が終わり、数日間の待機期間に入った時だけ店を開く。


利益のためではない。


単純にお菓子づくりが好きなのだ。


(自分が作ったお菓子で、誰かを笑顔にできるなんて、本当に最高よね!)


この店では、騙したり、演技したりする必要もない。


諜報員として生きるエレナにとって、唯一、ありのままの自分でいられる場所だった。


(さぁて、お客さんがいない今のうちに、次の新作案を考えようかな〜!)


クールな姿はどこへやら。


今のエレナは実にいきいきとした表情をしていた。


厨房にある椅子に腰掛けると、ノートを広げ、アイディアを書き綴っていく。


その姿はどこからどう見ても、菓子作りに夢中な一人の娘。


諜報員の面影は一切ない。


こんな一見普通の女の子であるエレナが、なぜ影でエースと呼ばれているのか。


それには理由がある。


一言で言えば、生い立ちのせいだった。


エレナには両親がいない。


生まれてすぐ孤児院に預けられ、物心つくまでそこで育った。


転機は五歳の時。


幼くして際立つ美貌を持っていたエレナは、その器量の良さを見込まれ、引き取られたのだ。


偶然その孤児院に来ていた――『影』の総長に。


その日からエレナは、英才教育を施された。


諜報員として必要な技能全般を叩き込まれ、十歳になる頃には、訓練の一環として補助付きで潜入任務を経験。


実践を積んでめきめきと実力を磨き、十代半ばには周囲に「天才」と言われていた。


そして十六歳で成人を迎えると同時に、正式に『影』の一員に加わった。


その時に授与されたコードネームが、ベラドンナである。


二十一歳である今、数々の任務をこなし、誰もが認める不動のエースとなっている。


エレナのように、幼い頃から諜報員となるべく育てられた影のメンバーは他にいない。


彼らは実力を買われて総長にスカウトされた面々だった。


影に加入したのもここ数年の話であり、それゆえエレナと総長の関係――上司であり、育ての親という事実を知らない。


エレナが幼かった頃にいたメンバーはすでに引退してしまっており、当時を知る人がいないのも一因だった。


(……いつか私も影を引退したら、菓子店だけをやって過ごせるかしら?)


エレナがこの店を始めたのは、今から三年前のこと。


それまでは趣味で作っていたお菓子を、試しに孤児院へ持って行ったところ、予想以上に喜ばれたことがきっかけだった。


美味しいと笑顔で食べてくれる姿を見て、胸が温かく満たされるような喜びを感じた。


エレナは諜報員の仕事だって嫌いではない。


国を陰から守る誇りと責任を持っている。


ただ、こんなふうに菓子の新作を考える時間はたまらなく楽しい。


それを形にして、お客さんが喜んでくれた時は、もっと幸せな気分になれることも知った。


諜報員としていい仕事ができているのは、こうして任務のない時に心に栄養を補充しているからかもしれないと最近は思っている。


――カラン、カラン。


その時、入口の方から来客を知らせるベルが鳴った。


慌てて立ち上がり、エレナは厨房から店内へ急いで移動する。


いつものように出迎えようとして、お客さんに笑顔を向けた。


「いらっしゃいま――……」


だが、相手の姿が視界に入った途端、言葉を失ってしまう。


(えっ、うそでしょ!?)


店内に入ってきたのは、ひとりの男性だった。


青みを帯びた銀髪に、漆黒の瞳。


すべてのパーツが完璧な配置で並んだ、彫像めいた涼やかな美貌が目を引く。


質素な服を纏っているが、その立ち姿だけで高貴な身分だと一目で分かる。


(というか実際、貴族だし。――しかも、とんでもなく身分の高い人よ)


名乗られずとも、諜報員であるエレナはこの男性を知っていた。


面識はない。ただ一方的に認識している。


なにしろ彼は、二十七歳という若さにして、すでに国の重鎮だ。


名は、ジークヴァルト・シュタルク。


シュタルク公爵家当主。

そして――国家安全保障局長官。


そう、彼こそが、先日の任務の報告を総長がしに行った相手だ。


つまり、影の面々が口にしていた『上』――諜報員への任務を発令する立場にある人である。


(護衛はいない。でも周囲への警戒は完璧……さすがね)


さっと彼の周囲に視線を走らせたが、隠れた気配はなかった。


本当にひとりのようだ。


(……でもシュタルク公爵が、なんでここに?)


シュタルク公爵といえば、血も涙もない冷酷無慈悲な人間として有名だ。


影にも躊躇なく暗殺命令を下すことを、実際にエレナは知っている。


おおよそ菓子とは無縁そうな、むしろ「甘いものなど食えるか!」と投げ捨ててしまいそうな印象なのに――


(本当に、なんで!?)


エレナの頭は疑問でいっぱいだった。



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