第1話 凄腕諜報員『ベラドンナ』
「あら……あなた、顔色が真っ青よ。大丈夫?」
「……な、なんだか先程から眩暈と吐き気がして……」
「それは大変だわ。あとはやっておくから、今日はもう帰って休みなさいよ」
「は、はい。新人なのに役立たずで……ほ、本当にすみません……!」
バスティア王国の王都に店を構える、ある商会の一室。
閉店後、床の掃き掃除をしていた下働きの若い女が、口元を押さえてふらふらと揺らめいた。
それを見た先輩らしき中年の女が、心配そうに声をかける。
若い下働きはよほど具合が悪かったのだろう。
そばかすの散った地味な顔を俯けて恐縮そうにしながらも、先輩の心遣いを素直に受け取り、覚束ない足取りで部屋を出て行った。
「大丈夫かしら? 途中で倒れたりしなければいいけれど」
後ろ姿を見送りつつ、中年の女は掃き掃除を再開させる。
しかし、しばらくしてふと手を止めた。
「――さっきの子、初めて見る顔だったわね。……名前は何だったかしら?」
何気なく、先程若い女が出て行った扉の方に目を向ける。
それは、かすかな違和感だった。
けれど、「そういえば新人って言ってたわね」と思い出した途端、その疑問も霧散した。
それからは若い女のことなど忘れ、早く終わらせなければと作業に没頭し出した。
一方、部屋を出た若い女は、顔を俯けながら、壁を支えにしてふらふらと廊下を歩いていた。
その表情は前髪に隠れて窺い知れないが、依然として具合は良くなさそうだ。
今にも倒れてしまうのではと心配になる足取りでなんとか進み、人気のない廊下の角を曲がる。
その瞬間――女の様子が一変した。
すっと背筋が伸び、足捌きが軽やかになる。
(さて、さっさと終わらせてやるわ)
三つ編み髪に、野暮ったい眼鏡。
質素な服に身を包んだ、誰の印象にも残らない地味な女。
だが、そんな彼女の唇に挑戦的な笑みがふっと浮かんだ。
(怪しいのは……地下倉庫ね)
そう胸の内でつぶやくと、女は進行方向を変え、地下へと続く薄暗い階段を静かに降りていく。
普通ならここを歩けば、コツコツと靴音が鳴るはずだ。
なのに、女は足音ひとつ立てなかった。
呼吸すら殺し、巡回する警備員の歩調に合わせるように進む。
そして警備員が視線を逸らした一瞬の隙を突き、目的の倉庫へ侵入を果たした。
(ここが地下倉庫……)
埃っぽさのある倉庫には、雑多に物が置かれていた。
女はざっと全体に目を走らせる。
(あの木箱――匂うわね)
目をつけたのは、高く積まれた真新しい木箱だった。
それだけが厳重に鍵が掛けられており、明らかに異質さを放っている。
(間違いなくこれがアタリだわ)
積み重ねた経験がそう告げていた。
素早く髪からヘアピンを抜き取り、懐から工具を取り出す。
それらを鍵穴にねじ込み、慣れた手つきで操ると、数分もしないうちに錠は静かに外れた。
(……ふぅん、やっぱりね)
中に入っていたのは、軍用の弩だった。
軍外への持ち出しが固く禁じられているはずの逸品である。
つまりこれは――密輸。
その証拠に木箱には送付元を記した帳簿まで同封されていた。
(探す手間が省けて助かるわ)
女はくすっと小さく笑うと、それを懐へ滑り込ませる。
そうして何事もなかったかのように再び鍵を掛け、地下倉庫を後にした。
◇◇◇
「総長、任務から戻ったわ」
「ベラドンナか。よく戻った。……して、例の密輸疑惑のあった商会、どうだった」
「真っ黒。――これ、その証拠よ」
下働きとして潜入していた女、コードネーム・ベラドンナは、机の上にバサリと帳簿を差し出した。
総長がそれに目を通し始めるのを視界の端に捉え、向かい側の椅子に腰を下ろす。
その姿に、先ほどまでの地味な女の面影はかけらもない。
シミひとつない、白く透き通る肌。
深淵を思わせるエメラルドグリーンの瞳。
人形のように整った顔立ちは、一度見れば忘れられない。
艶やかなアッシュブラウンの髪を耳へ流し、彼女は静かに息を吐いた。
そこへひとりの小柄な女が近づいてくる。
「おっかぇり〜! 今回は商会の下働きとして潜入してきたんでしょ? あたしの発明した変装道具は役立った?」
「ええ、ダチュラの発明品は変装には欠かせないわ」
「まぁ擬態の巧みさがなければ、いくら道具で見た目を変えても意味ないけどねぇ。ホント、あたしの発明品を十二分に使いこなしてくれんのは、ベラドンナだけだわ!」
コードネーム・ダチュラ。
彼女は組織が任務で使用する、あらゆる道具を作り出す天才発明家だ。
子供のような無邪気さと自由な発想で、常人では思いつかない品を次々に開発している。
ダチュラは、満足そうな笑顔でベラドンナを見た後、続いて背後の革張りソファに座っている男へ目を向けた。
「ねぇ、ヘムロックもあたしの変装道具で、その頬のこけた顔、いじってみない? 任務中、素顔を晒すのリスキーでしょ?」
「……ボクは遠慮しとくよ。そもそも素顔を見られる隙なんて与えないしさ」
コードネーム・ヘムロック。
一見不健康そうで影が薄く、頼りなさそうに見える男だ。
しかし彼は、隠密暗殺と尾行のプロ。
気配を完全に消す技術を極めている。
任務中ではない今は、のんびり珈琲を啜っていた。
つれない態度のヘムロックにダチュラが頬を膨らませていると、そこへまたひとり男が現れた。
くいっと眼鏡の中央を指で押し上げながら、総長とベラドンナの方へ歩み寄っていく。
「総長。その帳簿、俺にも見せてくれません?」
「ああ、アコナイト。ちょうどいいところに来たな。お前の意見も聞きたい」
コードネーム・アコナイト。
成功した商会長を思わせる風貌をした彼は、情報解析や偽造文書、暗号の作成を得意としている。
アコナイトは総長から書類を受け取ると、真剣な眼差しで目を通し始めた。
そしてすぐに何かに気づく。
「ベラドンナ、この帳簿はどこに?」
「クロスボウが入った木箱の中よ」
「ははっ、迂闊すぎだな。完全に密輸の証拠じゃないか」
「しかもご丁寧に、送付元まで書いてあるでしょう?」
「それだけじゃないさ。どうやらこの商会、どこかから資金援助を受けてるようだ」
「……なるほど。その金でクロスボウを大量に密輸し、反体制グループに横流ししていたのか」
総長がアコナイトの言葉を反芻するように、顎を撫でる。
物事が繋がり、全容が見えてきた。
そもそも今回の任務は、現在バスティア王国内で、反体制グループが警備隊を襲撃した暴動から端を発している。
拘束された反体制グループがクロスボウを所持していることが判明し、その入手ルートを突き止めよと命令が下ったのだ。
「軍用のクロスボウが現場にあったという報告、そしてこの帳簿。これで十分証拠になるだろう」
「総長、それでは」
「ああ、これで我らの任務は完了だな。私から国家安全保障局長官へ報告しておく。――みな、今回もよくやってくれた。次の任務までしばらく休め」
総長はメンバーを労うと、報告へ向かうために本部を足早に去って行った。
その場に残った面々は、ソファに座り直し、打ち上げがてら軽くワイングラスを交わす。
「みんな、お疲れぇ〜! 明日から休みだって! やっほーい」
「任務完了は喜ばしいけれど、商会に資金援助をしている何者かが分からなかったのは……少し気持ち悪いわね」
「ベラドンナ、その辺りは上の考えることさ。どうせ次はその何者かを探れ、とかかもよ」
「……アコナイトに同意だな。ボクたちは、上の命令を確実に遂行することだけを考えてたらいいのさ」
彼らが口にする『上』。
それは、諜報、防諜、内乱、外交工作など王国の安全保障全般を統括する――国家安全保障局。
そう、彼らは王家直属の諜報機関『影』に所属する諜報員だった。
総長をトップに、一流たちが名を連ねる少数精鋭の組織である。
コードネームで呼び合う彼らは、お互いの素性も本名も知らない。
任務以外で踏み込むことはない。
ただ、それぞれ得意分野を持ったプロであり、任務中はお互いの仕事ぶりを尊重していた。
そんな彼らの中でも、ベラドンナは特異な存在だった。
コードネーム・ベラドンナ。
彼女は変装、潜入、色仕掛けを得意とする一方、薬学や毒物、暗殺、戦闘、尋問まで幅広くこなす万能型の諜報員だ。
その能力と任務成功率の高さから、若くして『影のエース』と呼ばれる存在だった。
「――悪いけど、疲れたからもう帰るわ。お先に失礼するわね」
ベラドンナは早々にグラスを空にすると、他のメンバーに声をかけて立ち上がる。
そのままあっさり部屋を出て行った。
影に所属する者は、基本的に単独行動を好み、自由気ままに動く。
それゆえ、誰もベラドンナの退室を引き止めない。
残りの三人はひらひらと軽く手を振って、彼女の後ろ姿を見送った。
その姿が完全に見えなくなると、ワインを傾けながら、彼らはベラドンナについて話し始めた。
「ベラドンナはいっつもクールだよねぇ。任務の時はどんな人間にもなりすますのに、本部にいる時は無表情だしさぁ。あの容姿だから、まるで本物のお人形さんみたいって思っちゃうよ」
「……オンとオフの切り替えがはっきりしてるのさ。任務中の彼女は別人だ。あそこまで自分を消せる人間を、ボクは他に知らない」
「掟破りってことは重々承知だけど、ベラドンナがオフに何してるのかは、俺も気になるな。他のメンバーは多少なりとも日常が透けて見えるのに、彼女は匂わさないからね」
「アコナイト、だからと言って探るのは掟違反だよっ! あたしも気になるけど……!」
「……そうだぞ、いくら情報解析のプロでも、影同士で探り合うのは御法度だ」
「ははっ、分かってるさ。俺はここが案外気に入ってるんだ。――わざわざ総長に睨まれることはしないって」
彼らは知っている。
総長が特別にベラドンナに目をかけていることを。
それは彼女がエース級の凄腕だから、というのは間違いない。
だが、それだけではないだろうと薄々感じていた。
束の間、沈黙が流れる。
各々、心の中で総長とベラドンナの関係について考えを巡らせていたものの、結局結論は出ない。
するとダチュラがバシッと太腿を叩き、勢いよく立ち上がった。
「さぁて、あたしもそろそろ帰ろっかな。次の任務まで休みだし、満喫しなくっちゃ! ちょうど観たい劇団の公演があるんだよねぇ」
そう言うと、ぐっとワインを飲み干し、一足先にその場を去っていく。
「……ボクもそろそろ帰るよ。自宅にいても寝るだけになりそうだけど」
続いてヘムロックがその場を後にする。
最後に残ったアコナイトは、ゆっくりとワインを飲みながら、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「俺もこの続きは、行きつけのバーで楽しむとするかな。この時間なら常連連中も来てる頃だし、楽しく飲めるだろう」
なかなか優雅な休日になりそうだとアコナイトは唇の端を上げた。
そしてふと、先程帰っていった同僚が脳裏をよぎる。
「――ベラドンナ、君はどんな休日を過ごすんだろうね?」
影の中でも、その私生活がベールに包まれた謎多きベラドンナ。
アコナイトは、いつか本人に聞いてみたいものだと、ぽつりとつぶやいた。




