プロローグ
新連載です!
最後まで書き上げているので、完結保証でお届けします。
ぜひお楽しみくださいませ(^^)
満月の月明かりが暗闇を照らす中、人気のない倉庫街をひとりの若い男が息を切らして駆けていた。
額にはびっしり汗が浮かび、髪は乱れ、目は血走っている。
闇夜に紛れる黒装束のその姿は、神経質なほど何度も背後を振り返っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
全速力でずっと走り続けているのだろう。
激しく息が乱れ、苦しそうだ。
それでも男は一向に足を止めない。
何かに突き動かされるように、ただただどこかを目指して急いでいる。
――しかしその時。
ふいに建ち並ぶ倉庫の物陰から数人の人影が現れ、男の行く手を阻んだ。
「こーら。お前、なに逃げてんの?」
「おめぇのことは、前から匂うと思ってたんだぜ」
「スパイ野郎め! 俺らの目を欺けると思うなよ!」
柄の悪い、明らかに裏社会の者と一目で分かる連中が男を取り囲む。
退路を絶たれ、男はギリッと歯を噛み締めた。
(……くそっ、もはやここまでか)
絶体絶命を悟りながらも、なんとかこの窮地を切り抜けられないかと視線を彷徨わせる。
「まだ諦めてない感じ? あっはは! 無駄だってば!」
「俺らのこと舐めんじゃねぇよ。三人だけのはずねぇだろ?」
「そうだぜ! この一帯はすでに包囲済み。お前に逃げ場なんてねぇんだよ!」
甚振ることを楽しむかのような愉悦に歪んだ声が、口々に男へ投げかけられた。
男はジリッと後退り、腕を胸の前に構える。
もう武力行使しか残された道はない。
勝算は著しく低いが、無抵抗のままやられるつもりはなかった。
「状況も見極められないなんて、可哀想にねぇ」
「そっちがその気なら受けて立つぜ。どうせおめぇには聞かなきゃならねぇことが、たっぷりあるからな」
「ああ、吐いてもらうぜ。お前がどこの犬かをな!」
追い詰められた男はただ睨み返すのみで、一言も言葉を発さない。
その代わりに地を蹴り、相手に飛びかかった。
静かな深夜の倉庫街に、男たちの殴り合う鈍い音が響く。
人数差により圧倒的に不利な状況にもかかわらず、男は善戦を繰り広げた。
目の前に立ちはだかる三人のうち二人に膝をつかせ、戦闘不能にまで追いやった。
しかし苦し紛れの抵抗もそこまで。
もうひとりに隙を突かれ、ついに男も地面に叩き伏せられてしまった。
口の中に鉄の味が広がり、敗北感が押し寄せてくる。
(……無駄な足掻きだったか)
「幹部を二人も倒すなんて、やってくれちゃったねぇ。お前、思ってた以上にやり手じゃん? さーて、どこのどなたさんかなぁ?」
残りのひとりが乱暴に胸ぐらを掴み、男の懐を探った。
クシャリと紙の音が小さく鳴り、相手がニタリと笑う。
「おや? これは何かなぁ?」
そう言って、素早く紙の中身を改め始めた。
「なになに? ――黒鷹会は隣国工作員組織で確定。開戦準備中。黒幕は過激派貴族の可能性が高いが不明」
それはスパイである男が、この任務で得た成果だった。
黒鷹会に雇われた傭兵として潜入すること数ヶ月。
ようやく掴んだ情報である。
「あーはっはっはっは! これを親玉に伝えに行こうとしてたわけぇ? せっかく掴んだ情報なのに、残念だったねぇ?」
黒鷹会の幹部は嗜虐的な笑みを浮かべ、力の入らないスパイの身体を揺さぶった。
走り疲れた上に無慈悲に殴られ、スパイの男の意識が霞む。
だが、それは許されない。
その後殴る蹴るの暴行が繰り返され、男の身元や雇い主を吐かせる尋問が行われた。
容赦ない追及にもかかわらず、スパイの男は呻き声を上げるだけで、一切何も口にしなかった。
絶対に情報を漏らすものかと唇を噛み締め、ひたすら耐え忍ぶ。
(絶対に話すものか。この命に換えても守り切ってやる。……だから、どうか情報を無事に届けてくれ)
実はさきほどの紙はダミー。
万が一見つかってしまった場合に備え、幹部を油断させるための罠だ。
本物は黒鷹会が使っている『黒い鷲の紋章』も記した上で、橋の欄干の裏に隠してある。
男が所属する組織内での情報受け渡し場所がそこだった。
(黒鷹会の奴らが気づく前に、仲間が回収してくれるのを祈るばかりだ)
絶え間なく続く暴行に苦悶の表情を浮かべながら、男は胸の内で仲間に望みを託す。
だんだんと意識が遠のき始めた。
男は悟る――ああ、ここまでかと。
脳裏には家族や友人、仲間の顔が次々によぎった。
やがて、誰よりも大切な人の笑顔が胸を満たす。
(……帰れなくてすまない。どうか幸せに……コーデリア)
ふっと男が切なげに微笑み、目を閉じる。
それを最後に、男は二度と意識を取り戻す事はなかった。
何ひとつ情報を漏らすことなく、そのスパイは寂れた倉庫街で静かに息絶えたのだった――。




