第28話 二度目の告白②
彼はエレナを見るなり、張り詰めていたものがほどけたように息をついた。
けれど三角巾で固定された片腕や杖を視界に入れると、ひどく心配そうな色を瞳に浮かべる。
「よかった。動けるようになったのだな。……だが、まだまだ安静が必要そうだ」
「あの、私のことより、どうしてジーク様がこちらに?」
「王都に帰還したからだが?」
「いえ、あの、結果を知らせる早馬が到着したのは今朝ですよ? 馬車での移動ならもう少し時間がかかるはずですよね」
「ああ、私は馬を飛ばして帰ってきたからな。他の者たちより一足先に着いたんだ」
そう言われて改めてジークヴァルトを見れば、確かに彼の服は泥に塗れており、顔にも疲れが滲んでいる。
かなり強行軍で帰還したことが窺えた。
(そんなに急いでまで王都に帰ってくるなんて、何か重大な事件でも起こったのかしら)
負傷中で戦力外のエレナには知らされていないだけなのかもしれない。
だとすれば、なぜ彼は菓子店に訪ねてきたのだろう。
「悪いが、中に入れてくれないか? できれば、何か飲み物ももらえると助かる」
「……え? あ、そうですよね! 失礼しました! どうぞ、お入りください」
ハッとしたエレナは、慌てて大きく扉を開けた。
なんて気が利かないのだろうと、胸の内で唇を噛む。
ジークヴァルトを案内しようとしたものの、それも結局できなかった。
「エレナ、お前はそこに座っていろ」
「でも飲み物を……」
「私がやる。厨房を借りてもいいか?」
「はい、それはもちろん大丈夫ですけど」
「ならば、勝手に水をいただく。お前はまだ療養が必要な身だ。頼むから座っていてくれ」
有無を言わせぬ口調でそう言われ、エレナは頷くしかなかった。
自分だけが座ったままでいるのは気が引けるが、仕方がない。
大人しく椅子に腰かけ、厨房の方を見つめていると、すぐにジークヴァルトはこちらへ戻ってきた。
その手には水の注がれたグラスが二つ握られている。
彼はそのひとつをエレナに手渡した。
「エレナも飲むか? 水分補給はしっかりしておいた方がいい」
「ありがとうございます。実はちょうど喉が渇いていたところだったんです」
礼を告げ素直に受け取り、エレナはグラスに口をつけた。
その様子に目を細めたジークヴァルトも、腰を下ろし、二人はそれぞれ黙って水を飲む。
「…………」
「…………」
その場に奇妙な沈黙が落ちた。
二人は互いをチラチラと盗み見、相手の様子を窺う。
「……そのネックレス、身につけてくれてるんだな」
先にそうぽつりとこぼしたのはジークヴァルトだ。
彼はエレナの首にかかるネックレスに視線を止め、わずかに唇を綻ばせた。
「はい。任務の時も、お守り代わりに身につけていました」
「そうか。あの時も……」
「お約束通り……お返ししますね。お貸し出しいただきありがとうございました」
エレナは首からネックレスを外すと、それをジークヴァルトへ手渡そうとした。
だが、彼は頑なに受け取ろうとしない。
なぜか眉間の皺を濃くし、不服そうな顔でエレナを見つめ返してきた。
(どういうこと……?)
ジークヴァルトの真意が読めず、エレナは戸惑う。
すると、彼の手がネックレスごとエレナの手を包み込んだ。
「あ、の……?」
「……気づいていなかったのか? 高価なものだから返してほしいなんて――ただの口実だ」
「えっ」
「実は公爵家に代々伝わるものですらない。これは……私が愛する人に何かを贈りたくて、エレナのために購入したものだ」
「!?」
エレナは思わず息を呑んだ。
(い、今……あ、愛する人って、言わなかった? うそ、聞き間違い!?)
急にドクドクと心臓が騒がしくなる。
重なった手も、どうしようもなく熱くて、掌にじわりと汗が滲み出した。
「ジーク様……いえ、シュタルク長官。あの、今、あ、愛する人って、おっしゃいました?」
「ああ、間違いなく言った」
「で、でも、以前に申し上げましたよね? シュタルク長官は『菓子店のエレナ』に好意を抱いてくださってるだけで……」
「あの時は、お前がベラドンナだと知ったばかりで、自分の気持ちを整理できていなかった。だから、何も言い返せなかったんだ」
その日のことを思い出しているのか、ジークヴァルトは一度目を伏せる。
しかし再びエレナを見つめると、熱のこもった眼差しを向けた。
「あれから私も自分なりに考えたのだが――その結果、『菓子店のエレナ』も、『諜報員のエレナ』も、私はどちらのお前も愛している」
「ジーク様……」
「菓子店で朗らかに笑うお前も、任務に命を懸ける誇り高いお前も……どちらも紛れもなくエレナだ。私は、そのすべてを愛している」
「でも、あんなに色仕掛けに反対されてたのに……」
「あの時は確かにそう言ったし、今も正直言えば、他の男にエレナが笑顔を向ける姿は見たくない。だが、それがお前の任務ならば、私は受け入れる。……今の私は、任務に賭けるお前の想いを痛いほど知っているから」
その言葉の一つひとつから、ジークヴァルトの本気がエレナには伝わってきた。
すべてを受け入れると語る彼に、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。
実際に先日の潜入の時、彼は任務を託し、エレナを送り出してくれた。
だからこそ、言葉が嘘ではないことが分かる。
(こんなこと言われたら、もう私……)
心が喜びに震え、エレナの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「で、でも、私は平民です。ジーク様とは身分が全然釣り合いません」
「そんなことは気にするな。公爵家の当主は私だ。誰も私の決定には口を挟めない。もし異を唱える者がいるなら、私が黙らせる」
「それで、大丈夫なんですか? その、お仕事に影響が出たりとか……」
「それもまったく問題ない。今まで通り結果を出せば済む話だ。そもそも私がその程度で失職する男だと思うか?」
「いえ、思わないです」
エレナはゆるゆると首を横に振った。
ジークヴァルトほど有能な人材を、みすみす王家は手放さないだろう。
すると、彼は親指でエレナの涙を拭い取りながら、まっすぐにエレナを見つめた。
「繰り返すが、私はお前を愛している。軽い気持ちではない。お前のすべてを受け入れた上で、これから先の人生を共に歩みたいと思っている。――だから、どうか私の妻になってほしい」
「……ッ」
言葉を詰まらせたエレナの瞳から、また大きな雫が溢れ出した。
ジークヴァルトの顔を見たいのに、視界が滲んで前が見えない。
こんなふうに感情のまま泣くなんて、一体いつぶりだろうか。
エレナは今まで経験したことのない幸福感に全身を満たされ、ふわふわとした心地がした。
恐ろしく都合のいい夢でも見ているのではないかと怖くなる。
でも頬に拭う指先も、重なった手も、確かな温もりが感じられ、これが現実だと教えてくれる。
「エレナ、お前の返事を聞かせてくれ」
「ジーク様、私……」
エレナは一度言葉を止めた。
次から次に心の奥底から溢れてくるこの想いを、どう紡げばいいのだろうかと一瞬迷ったのだ。
でもその答えは見つからず、エレナは取り繕うことなくありのままを打ち明けた。
「私も、好きです。……血も涙もないと恐れられるほど、国のために己を律するジーク様も、責任感から人知れず胃を痛くしているジーク様も、林檎パイに目を輝かせるジーク様も。――私も、どんな貴方も愛しています」
エレナの手を握るジークヴァルトの手に力がこもる。
頬に触れていた反対の手は、輪郭をなぞるようにするりと滑り降り、小さな顎を軽く持ち上げた。
「エレナ……愛してる」
そう甘く囁くと、ジークヴァルトは椅子から腰を浮かし――そっとエレナの唇に熱を落とした。
触れるくらいの優しいキスが、二度、三度と角度を変えて繰り返される。
(どうしよう……すごく、幸せ。……口づけって、こんなにも甘いものなのね)
任務の一環で経験があったエレナも、私生活では初めてだ。
いまだかつて感じたことのない甘美さに胸が高鳴り、うっとりと身を委ねる。
やがて、体に負担がないよう配慮したのか、ジークヴァルトが離れた。
だが、お互いの瞳には、まだ物足りなさが燻っている。
二人は視線を合わせると、どちらからともなく、もう一度顔を近づけた。
今度は互いの想いを確かめるように、ゆっくりと唇を重ねる。
そしてそのキスの終わり、ぼそりとジークヴァルトがつぶやいた。
「――困ったな。エレナの唇は、菓子よりも甘くて……癖になりそうだ」




