第27話 二度目の告白①
「あら、エレナさん! お久しぶりね。……って、その怪我どうしたの!? 大丈夫!?」
「ちょっと事故に巻き込まれまして……。でも命に別状はありませんから」
「そう、それで長らくお店が閉まっていたのね。近所の人たちと、ここまで長期で営業していないのは珍しいよねって話してたのよ」
「すみません、まだしばらくは営業できそうにないんですけど、またぜひいらしてくださいね」
「ええ。お大事にね?」
この日、エレナは久しぶりに菓子店へ向かっていた。
その途中、常連客のひとりとすれ違い、言葉を交わす。
笑顔で別れを告げた後、再びゆっくりと歩みを進め、ようやく店に到着した。
鍵を開けて中に入ると、「もう限界……」とばかりに椅子にドサリと崩れ落ちる。
「ふぅ……なんとか一人で歩いて帰れたわ。でもやっぱり、体力落ちてるなぁ……」
思わず深いため息が漏れた。
あのアジトへ潜入した日から、かれこれ二週間半が経つ。
肩と腹を撃たれた状態で四階から運河へ飛び降りたエレナは、命こそ取り留めたものの――かなりの重症だった。
あの後、すぐに影本部まで運ばれて医師の治療を受けたが、高熱に見舞われ、なんと三日も目を覚まさなかったのだ。
ようやく四日目に意識が戻ったものの、体を起こすこともままならず、寝たきりの状態が続いた。
看病してくれた影の内勤メンバーの手を借りないと、食事もできない有り様だった。
ただ幸いにも、若く健康だったおかげで、傷の治りは早かったらしい。
十日目には体を起こせるようになり、十四日目には支えがあれば歩けるまでに回復した。
そして療養開始から十七日目の今日――エレナはあの日以来初めて外に出ている。
とはいえ、まだ三角巾で片腕を吊っており、歩くには杖が必要という痛々しい状態だ。
周囲からは「もう少し安静に」と止められたが、それでもエレナは菓子店へ行くことにした。
(だって、この二週間近くずっと影の本部にいて……正直、気が休まらなかったのよね)
ここまで回復できたのは、医師と仲間のおかげだ。感謝はしている。
だけど、本部はエレナにとって仕事の場だ。
どうしても気を張ってしまうし、情報が耳に入れば自然と思考も任務に向いてしまう。
だからこそ、一度自分ひとりの安心できる場所で、心を落ち着かせたかったのだ。
(これ以上、体力が落ちてしまうのも、諜報員としては困るもの。リハビリの一環でもあるわ!)
そう思って、なんとか自力で店まで辿り着いたものの……
「……思った以上に、きつかったわね」
椅子にぐったりと腰を下ろしたエレナは、肩で息をしていた。
額には汗がびっしょりと滲んでいる。
この調子では、しばらく仕事への復帰は難しいかもしれない。
日常生活すらままならないのに、軽やかな身のこなしが求められる諜報員の仕事は厳しいだろう。
(それどころか、お菓子作りも無理そう……)
ボウルを抱えて生地やクリームを泡立てるのも、石窯へ出し入れするのも、意外と力がいる。
傷が癒えるまでは、満足に菓子も作れないのかと思うと、再びため息がこぼれた。
(任務で大怪我を負ったのは初めてだから、こんな時どうしたらいいか分からないわ)
諜報員も、菓子店もできない。
何もできない自分が、ひどくもどかしかった。
でも、だからといって、エレナは決してこの負傷を後悔などしていなかった。
あの時、何よりも証拠が優先だったし、敵に捕らえられるわけにもいかなかった。
今振り返っても、自分の行動は間違ってなかったと断言できる。
むしろ見事に任務をやり遂げたのだから、誇るべきだろう。
(その証拠が、極秘会談でも役立ったって聞いたものね)
つい数日前、国境の地でインメルと会談の場が設けられ、無事に戦争回避の約束がなされたという。
ここへ来る直前、現地から速報が届いたばかりだった。
これで武器密輸事件から始まった一連の陰謀は、ようやく終焉を迎えたのだ。
(私も少しは貢献できたはず。陰ながら国を守ったって、誇りに思わなきゃ!)
だから、これは『名誉の負傷』だ。
そう思えば、この疼くような痛みも、自由に動かない不自由さも我慢できた。
(ジーク様も、そろそろ帰ってこられるのよね……)
極秘会談では、こちら側の代表としてジークヴァルトが赴いているそうだ。
この難しい局面で、彼は国の代表に選ばれ、見事にその期待に応えて見せたと聞き及んでいる。
きっと国益を第一に、冷静に相手と渡り合ったのだろう。
(やっぱり凄い人だわ。そんな方から、このネックレスを預かっているけれど……いつ返す機会が巡ってくるかしら……?)
エレナは服の下から首にかけたネックレスを取り出し、そっと触れる。
窓から差し込む陽光に照らされ、薄緑色の宝石が眩く光った。
早馬が今日到着したことを考えると、彼の王都帰還は明日か明後日のはずだ。
けれど、きっとその後もしばらくは事後対応に追われるに違いない。
それに国の命運がかかった会談に代表を任されるほどの人だ。
そんな雲上人と、ただの諜報員でしかない自分が顔を合わせる機会など、早々ないだろうとエレナは思う。
以前、好意を伝えてもらったが、それももう数ヶ月前のこと。
あの時にエレナ自身が指摘した通り、ジークヴァルトも「菓子屋のエレナ」が好きだっただけだと思い直したかもしれない。
実際、任務の前に会った時も、彼は特に好意を口にはしなかった。
(これを預けてくれたけれど……それは危険な任務を前にした私を、きっと励ましたかっただけよ。部下を送り出す時のように)
そう思うと、胸がギュッと締めつけられる。
彼への想いが日に日に大きくなっていく自覚のあるエレナだが、この気持ちをどう扱っていいか分からない。
大きな仕事を成し遂げたジークヴァルトを誇らしく思う一方で、彼がより一層遠い存在になってしまったように感じ、エレナは少し寂しかった。
(……駄目ね。寂しいなんて、おこがましいわ)
ふっと自嘲気味な笑みが浮かぶ。
もうジークヴァルトのことを考えるのはやめようと、エレナは軽く頭を振り、ゆっくりと立ち上がった。
喉の渇きを覚え、水を飲もうと杖をついて厨房へ歩き出す。
ちょうどその時だった。
――ドンドンドン
静寂を切り裂くような音が鳴り響く。
(えっ、何……?)
驚いて入口の方を振り返れば、誰かが必死に扉を叩いていた。
まるで中にエレナがいると分かっていて、気づいてもらおうとしているかのようだ。
誰かと会う約束もないエレナは、怪訝そうに眉を寄せる。
今のエレナは素早く動くこともできず、何かあってもひとりで対処できない。
不審な来客は極力避けるべきだろう。
(ここは大人しく様子見ね)
じっと息を潜め、入口の様子を窺う。
しかし、扉を叩く何者かは一向に帰る気配がない。
どうするべきかとエレナがため息をつきかけた次の瞬間。
「――エレナ!」
聞き慣れた低い声が耳に飛び込んできて、エレナは目を見開いた。
(えっ、うそ……でも、まだ王都へ戻っているはずないわよね……!?)
聞き間違いかと思いながらも、エレナは思わず杖をついて扉に近づいた。
そしてゆっくりと開けると――信じられない人が立っている。
「ジ、ジーク様!? な、なんで!?」
そう、そこにいたのは国境から移動中のはずのジークヴァルトだったのだ。




