第26話 冷酷公爵の真価
「――シュタルク長官、意識のない女性に、断りなく口づけするのはどうかと思いますな」
その時、コホンという咳払いとともに、ふいにジークヴァルトの背後から声がかかった。
気配を悟れなかったジークヴァルトは、驚いて振り返る。
そこには、音のない足音でこちらへ近づいてくる総長の姿があった。
(……見られていたか)
ジークヴァルトは気まずそうに視線を逸らす。
総長は彼のすぐ横までやってくると、エレナの無事を確認し、ほっと息をついた。
そして今度はその眼差しをジークヴァルトに向ける。
「……して、長官にお伺いいたしますが、エレナとは恋人にでもなったのですかな?」
「…………」
「任務前に橋でお会いになったでしょう。私がそう采配しましたからな。ひょっとして、その時にエレナが長官へ好意を口にしたり?」
「……いや」
じとりとした目で見つめられ、ジークヴァルトはたじろぐ。
改めて思うが、やはり総長はまるでエレナの父親かのような態度だ。
(本人の承諾もなく口づけするな、ということだな。……正論すぎてぐうの音を出ない)
ジークヴァルトは今しがたの自分を反省した。
でも後悔はしていない。
次は必ず同意の上で、もう一度……と決意を新たにする。
すると、それを察したかのように総長はまたしても咎めるような鋭い目を向けてきた。
だが、コホンと再び咳払いをすると、すっと表情を引き締めた。
「――まぁ、この件はおいおい。それより今は任務のことが優先ですしな。……ということでご報告いたします。黒鷹会アジトの制圧が完了しました」
「! 早いな」
「ええ、一切容赦なく制圧いたしました。二十二年前の二の舞にならぬよう、徹底的に潰してやらないといけませんからな」
総長は冷え切った眼差しでアジトを睨み、蔑むように唇に小さな笑みを浮かべた。
どうやら黒鷹会に対して、相当思うところがあるようだ。
(やはり総長は、二十二年前の一件に深い因縁があるのか……?)
そんな疑問が脳裏をよぎったが、ジークヴァルトはそれを問うことはなかった。
先に総長が重大な情報を告げたからだ。
「あともう一点、ご報告が。ベラドンナがもたらしたこちらの中身を改めて確認いたしました。結果、黒幕を暴く確実な証拠として十分かと思います。お納めください」
総長から手渡されたのは、先ほどエレナが投げて寄越したものだった。
木製筒を開けると、一枚の紙が入っている。
それは、黒幕の手書きサインと印章が入った任務指示書だった。
「インメル王国のヴォルグラム公爵が、真の黒幕か……」
書類に目を通しながら、ジークヴァルトは低くつぶやいた。
脳裏に公爵の顔を思い浮かべる。
シリウス・ヴォルグラムとは、何度か夜会などで顔を合わせたことがある。
ジークヴァルトと同年代で、軍人らしい体つきの生真面目そうな男だった。
二、三年前に先代が逝去し、彼が爵位を継いだばかりだったと記憶している。
(軍務を預かる名家で、忠臣として知られるヴォルグラム公爵家がなぜ? シリウス卿の一存か? それとも先代の意向を汲んだ企みか?)
ジークヴァルトの知るシリウスに、野心家という印象はない。
むしろ好戦的だったのは父である先代だ。
正直、先代の仕業だと言われる方がしっくりくる。
もしかすると、生前から計画されていたのかもしれない。
だが、この指令書に残るサインは間違いなくシリウス本人のものだ。
(どちらにしても、ここにシリウス卿の直筆サインがある以上、彼の関与は間違いない)
ジークヴァルトは指令書を木製筒に収め直すと、ぐっと握りしめる。
そして総長をまっすぐに見据え、静かに告げた。
「証拠は確かに受け取った。私はすぐにこれを持って王城に戻り、開戦を止める手筈に移りたいと思う」
「ええ、それがよろしいでしょう」
「この場の指揮と……彼女を、エレナを頼む」
「承知しました」
総長が頷く姿を見届けると、ジークヴァルトは立ち上がった。
踵を返そうとした刹那、一度だけエレナを振り返る。
本当は傷ついた彼女を置いて、この場を離れたくなどない。
目を覚ますまで傍にいたかった。
けれど、彼には彼の仕事がある。
この証拠を一刻も早く国王へ届けねば、外交は動かせない。
(エレナにも、後は任せろと約束したからな)
実の家族のようにエレナを見守る総長がいるのなら、きっと大丈夫だ。
そう言い聞かせて、ジークヴァルトは唇を引き結ぶ。
そして、断腸の思いでその場を後にした。
◇◇◇
それから約二週間後。
バスティア王国とインメル王国の境界を流れる大河に浮かぶ小島。
そこに建つ古い砦の一室にて、両国の代表者たちが向かい合っていた。
人数はごく少数。両国とも代表者と護衛だけという、最小限の顔ぶれだった。
「私宛への密書をもたらしたのは、あなたですか? 受け取った時は驚きましたよ。父上とも協議の上、応じることにはしましたが……」
まず最初に口を開いたのは、インメルの王太子だ。
物腰が柔らかく穏やかな容貌をした若い男だが、国の代表に相応しい堂々さを備えている。
王太子は外務大臣を従え、バスティアの面々をまっすぐ見据えた。
「ええ、私です。穏健派の王太子殿下は、我が国との開戦を望んでおられないと思い、このような手段を取った次第です。……その方が殿下にとってもご都合がよろしいのでは?」
対するバスティアの代表として、言葉を返したのはジークヴァルトである。
本件をこれまで取り仕切ってきた実績から、国王が直々に彼を代表に指名したのだ。
ジークヴァルトはいつにも増して覇気に満ち、その場を支配するような存在感を放っていた。
隣に座る外務大臣が、思わず「自分は添え物だな」と思うほどだった。
両国の代表はお互いに出方を探り、静かに見つめ合う。
その場にはひりつくような緊迫した空気が流れた。
(……さて、ここからが本番だな)
ジークヴァルトは、インメルの王太子を見つめ、何から切り出すべきかと思考を巡らせる。
黒鷹会アジトへの突入後、この極秘会談を実現させるまでに約二週間も要している。
緊急の御前会議で方針を決定させ、足の速い影にインメル王太子への密書を託して接触。
返答を受けすぐに王都を発ち、数日かけて国境の地まで移動してきた。
この間、忙殺されていたジークヴァルトは、エレナとまったく会えていない。
総長経由で容態が回復しつつあることは聞き及んでいるが、実際にこの目で確かめないと安心できなかった。
(エレナとの約束は必ず果たす。この会談で開戦を止め、そして――一刻も早く彼女のもとへ)
ジークヴァルトは気を引き締め、改めて目の前の王太子をまっすぐ見据えた。
「単刀直入に申し上げましょう。密書でもお伝えしました通り、我が国では貴国の公爵が暗躍していた証拠を掴んでおります。彼は我が国へ息のかかった組織を送り込み、戦争を引き起こす火種を撒いておりました」
「ええ、それは事前に聞き及んでいましたが。……その証拠とは?」
「こちらです。……ああ、処分されては困りますので、お手は触れないようお願い申し上げます」
そう言って、ジークヴァルトは卓上に二枚の紙を並べる。
一枚は、黒鷹会とヘルダー伯爵が締結した協定書。
そしてもう一枚は、ヴォルグラム公爵の直筆サインと印章の入った指令書だ。
「これは……」
「ええ、ご覧の通り、貴国の公爵であるシリウス・ヴォルグラム卿が、黒鷹会を使って暗躍していた証拠です。先般起こった貴国の外交官暗殺未遂すら彼の仕業でした。ご丁寧に我が国の者に犯人をなすりつけてくださったようです」
「…………」
決定的な証拠を突きつけられ、さすがに王太子は難しい顔をして口を閉ざした。
反論のしようがないと察し、この状況でいかに立ち回るべきか、慎重に考えを巡らせているようだった。
しかし、隣の外務大臣は、なんとしても自国の非を認めたくないらしい。
顔を赤く染め、ダンッと机に手をつき立ち上がる。
「待たれよ! これは捏造かもしれませんぞ! 偽装書類ではないという証拠はあるのですかな!」
「ほう? 我が国をお疑いになるのですか? 偽装であるか否かは、調べていただければすぐ分かることですが……まぁいいでしょう。それならばもう一つの証拠をお見せします」
「もう一つの証拠ですと?」
その問いには答えず、ジークヴァルトは背後に立つ護衛騎士に合図を送る。
指示を受けた騎士は部屋を出ると、ほどなく戻ってきた。
厳重に拘束されたひとりの男を引き連れて。
「こちらがその証拠です」
ジークヴァルトはその男をインメルの面々の前に立たせ、冷ややかな口調で告げた。
「こ、この男は、ヴォルグラム公爵の直臣の……!」
「黒鷹会のボスです。ヴォルグラム公爵に代々仕える家柄の男らしいですね。書状で不足でしたら、彼の口から直接、陰謀の全貌を語らせましょうか」
「ぐっ……」
「これらの書類と証人を、周辺諸国へ公表すれば、どうなるでしょう。……貴国は『不当な侵略国家』として孤立することになるかもしれませんね?」
「……」
とうとうインメルの外務大臣も視線を彷徨わせ、口をつぐんだ。
さすがにこれだけ証拠を提示し、多少の脅しをかければ、反論の余地はないだろう。
(これもすべてエレナのおかげだな。危険に身を投じてまで、彼女は掴んできてくれた)
だからこそ、それを無駄にはしない。
必ずやこちらの望む方向で会談を成功に導くと、ジークヴァルトの眼差しに、揺るぎない決意が宿る。
すると、そんなジークヴァルトを見て、王太子は冷静に引き際を見極めたようだった。
「……見事ですね。ここまでされたら、我が国の公爵の愚行は真実だと認めねばなりません」
深くため息を吐くと、そう言って先ほどまでの張り詰めた気配を緩ませた。
「貴国の要望をお伺いしましょう。何を望まれますか?」
「我が国は貴国との戦争は望んでいない。だが、貴国でも開戦論が高まっていると聞く。それを確実に収め、決して我が国へ兵を向けぬと約束してもらいたい」
「分かりました。この名に賭けて、約束しましょう」
「加えて、我が国へ不和をもたらしたヴォルグラム公爵と黒鷹会の処罰を希望する」
「ええ、それはもっともですね。ただし、それは我が国にお任せいただいても? そちらの証拠を引き渡していただければ、私の手で必ずや彼らに裁きを与えましょう」
王太子がやけに実感のこもった声で、力強く頷いた。
彼も過激派の貴族たちには、以前から頭を痛めていたらしい。
戦争こそが国のためと考える過激派は、平和を維持したい王家と相入れなかったという。
特に先代ヴォルグラム公爵の言動は目に余るものがあったが、表向きは忠臣のため、長年、注視するに留めるしかなかったそうだ。
「その先代も亡くなり、警戒が緩んでいたのは事実です……。新たに公爵となった息子のシリウス卿は過激な言動もなく、真面目な男でしたから」
「私も彼にお目にかかったことがありますが、同じ印象ですね。正直、黒幕だと分かり驚きました」
「実は貴国から密書を受け取り、急遽身辺を調べさせたのですよ。そうしたら……どうやらシリウス卿は先代の逝去時に『戦争こそ一族の使命』と想いを託されたようです。親の思想を色濃く受け継いでいることが分かりました」
「なるほど……」
ヴォルグラム公爵家は、建国以来、幾度もの戦争で武功を挙げ、爵位を上げてきた家柄だという。
そのため、戦争が栄光をもたらすという思想が、代々受け継がれてきたようだ。
(……シリウス卿は、もしかすると陰謀を起こしていた自覚すらないかもしれないな)
親に教え込まれたままに動いてきた――そんな姿が容易に想像できた。
ジークヴァルト自身も、幼少期から父親に「国益第一」と厳しく教育されてきた身だ。
少しばかりその心情が分かる気がした。
(とはいえ、同情するつもりはない。我が国に対する行いは到底許せない。きちんと処罰を受けるべきだ)
こうして両国間では、「開戦回避」と「公爵家および黒鷹会の処罰」を約束する極秘協定が結ばれた。
バスティアは、インメルに公爵家を失脚させる証拠を渡すことで恩を売り、和平と政治的利益の双方を手にした形だ。
残りの黒鷹会の精鋭工作員たちも、賠償金の支払いと引き換えに、後日引き渡すことに決まった。
すべてはバスティア王国の望む結末だ。
ジークヴァルトは協定書への署名を終えると、ようやく肩の荷が下りたように息をついた。
(約束は果たした。……待っていてくれ、エレナ)
二週間前に見たきりの彼女の姿を思い浮かべ、ジークヴァルトは静かに拳を握った。




