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凄腕スパイは甘い嘘を焼き上げる 〜秘密の菓子店を営んでいたら、冷酷公爵様が常連になりました〜  作者: 美並ナナ


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第25話 焦燥感と救出

(予定の時間まで、あと少し……)


物陰に潜むジークヴァルトは、胸元から懐中時計を取り出した。


カチリと蓋を開け、文字盤に目を落とす。


先ほどから何度もこの動作を彼は繰り返していた。


その様子を見て、隣に控えていた総長が、窘めるように囁く。


「シュタルク長官、気持ちは分かりますが……何度も時計を確認したところで状況は変わりませんぞ」


「……ああ、分かっている」


正論を告げられ、ジークヴァルトは苦々しい表情を浮かべた。


彼とて、そんなことは百も承知だ。


だが、じっとしていられない。


待つだけというのが、こんなにももどかしいとは思わなかった。


(愛する女性が、命懸けの覚悟で任務にあたっているというのに、私はただ待つことしかできない……)


ジークヴァルトは運河沿いの倉庫を、鋭い眼差しで睨みつける。


「心配なのは私も同じです。だが、ベラドンナはこれまで幾度も死地を潜り抜けてきた、一流の諜報員です。きっとやり遂げる……そう信じて待つほかありません」


「そうだな」


ジークヴァルトは小さく息を吐くと、懐中時計を仕舞い込んだ。


そうして再びアジトへと目を向ける。  


暗闇に包まれる倉庫からは、うっすら灯りが漏れており、人の気配が感じられた。


あの中に、変装したエレナが今まさに潜入中だ。


ジークヴァルトはそのアジトを包囲する影の面々と共にここにいる。


本来、彼は命令を下すだけの立場だ。


最前線へ率先して赴く必要などない。


けれど、ジークヴァルトは自ら望み、影の突入部隊を指揮することにした。


エレナだけを危険に晒し、自分は安全なところで結果を待つなど、到底できなかったのだ。


「ベラドンナは三時間以内に証拠を掴み、脱出してくると宣言しておりましたから、そろそろですな」


隣でそう呟いた総長も、真剣な面持ちで目の前のアジトへ視線を向けた。


この後、エレナが戻り次第、影は一斉にアジトへ突入する計画となっている。


黒幕の正体を掴む前に踏み込めば、証拠を隠滅される恐れがあったが、証拠さえ手に入れれば、もはや黒鷹会を生かしておく理由はない。


(二十二年前同様、いや今度こそ、完全に壊滅させてやる。二度と復活などできないように)


ジークヴァルトはギリッと手を握りしめた。


するとその時、隣から「おや……?」と訝しげな声が耳に届いた。


「どうした、総長」


「……どうやらアジトで何かあった模様ですな。急にざわつき出しました」


「何……?」


目を凝らし耳を澄ませると、確かに先ほどまでより灯りの数が多くなり、慌ただしげな足音がかすかに聞こえてくる。


(まさか……エレナの身に、何かあったのか?)


嫌な予感が胸を貫き、指先から温度が失われていく。


総長も同じ思いであったのか、みるみるうちに表情が険しくなった。


(明らかに異常事態がアジトで起こっている。エレナが危機に陥ってるかもしれない。……予定より早いが、突入命令を出すか?)


ジークヴァルトは難しい決断に迫られた。


感情を優先するならば、今すぐにでも突入して、彼女の無事を確認したい。


だが、それでは肝心の証拠を逃してしまう恐れがある。


黒幕の正体が掴めなければ、この国の危機だ。


相手の思惑通り、戦争が引き起こされ、多くの命が失われかねない。


それらを踏まえれば、今はまだ突入命令を出すには明らかに早かった。


(私は国家安全保障局長官だ。感情で判断するなど許されない。分かっている。確実に証拠を手に入れることが最優先だ。だが……)


胸が締めつけられ、息が詰まる。


これほど自分の立場が恨めしく思えたのは初めてだ。


「――シュタルク長官!」


その時、総長が珍しく焦りを滲ませた声を上げた。


即座に顔を上げ、総長の視線の先を追う。


すると、ジークヴァルトの視界に、信じられない光景が飛び込んできた。


(エレナ……!)


アジトの最上階、外へ張り出した荷揚げ用通路の端に立った彼女は――黒鷹会の者たちに囲まれていた。


逃げ場を失い、じりじりと後退している。


「変装したままですが、状況から察するに、どうやら敵に正体が露見したようですな……」


「ああ、そのようだ……」


「証拠を掴んだ後なのか、それとも掴み損ねたのか、どちらであるかが分からないと突入も難しい……」


「――総長の言う通りだな」


ジークヴァルトは片時もエレナから視線を外さず、前を向いたまま答える。


衝動的に駆け出したくなるのをグッと抑え込み、なんとか冷静さを保とうとした。


しかし心臓はドクドクと脈打ち、嫌な音を刻む。


そのまま総長と共にエレナを見守っていると、ふいに彼女がこちらを見た気がした。


そして次の瞬間――


ドスッと鈍い音がして、エレナが矢に肩を撃ち抜かれる。


「……ッ」


ジークヴァルトは目を見開き、きつく唇を噛みしめた。


身を潜めている今、絶対に声を出してはいけない。


あまりに強く噛みしめた唇から血が滲み、口内にうっすら鉄の味が広がる。


(このままではエレナが危ない。もう突入命令を出すしか……)      


そう考えた刹那、撃たれてふらついたエレナが思わぬ行動に出た。


大きく振りかぶったかと思うと、影が潜む方向に向かって、勢いよく何かを投げたのだ。


(あれは、なんだ?)


ジークヴァルトには落下物の軌道は目で追えなかった。


しかし年齢を感じさせない身軽さで身を翻した総長が、素早く落ちてきたものを受け止めた。


「確保しました。……さすがベラドンナ、これは証拠のようですな」


受け取った木製筒の中を確認して、総長はそう口にする。


つまり、エレナはあの危機的状況下で、なんとか証拠だけは仲間に託そうとしたのだ。


たとえ己の身が傷つこうとも。


彼女の任務にかける想いが伝わってきて、胸が熱くなる。


(証拠は手に入った。これで黒鷹会を心置きなく始末できる。……エレナも、絶対に助ける)


懸念事項が消えた今、もう迷いはなかった。


ジークヴァルトは総長を見据え、静かに命じる。


「――突入だ。奴らを全員捕えろ。生死は問わない」


「はっ、承知しました」


総長が一礼し、立ち上がる。


他の影のメンバーにも合図し、潜んでいた場所から一斉に飛び出そうとした――まさにその時。


ドスッ、と再び鈍い音が辺りに響いた。


最上階を見上げると、エレナの体が大きく揺れている。腹を撃たれたようだ。


肩と腹……二箇所も傷つけられたとなると、出血多量が危ぶまれる。


一刻も早くエレナを救出しなければ、命が危ない。


(エレナ、今助ける。どうか無事でいてくれ……!)


そう願い、ジークヴァルトが物陰から飛び出そうとしたその瞬間。


「――エレナ!」


ジークヴァルトは信じられない光景を見た。


彼女が四階から真っ逆さまに暗い運河へと落ちていく。


ドブン!と大きな水柱が立ち上がり、水面が赤く染まった。


エレナが浮き上がってくる気配はない。


「影! 今すぐ全員突入して敵を制圧せよ!!」


ジークヴァルトは叫ぶように命じると、指揮を総長に託す。


そして自分は、上着を脱ぎ捨て、一切の躊躇なく冷たい運河へ向かって飛び込んだ。




(どこだ、どこにいる……?)


わずかな月明かりしか届かない夜の運河は真っ暗で、ジークヴァルトはなかなかエレナを見つけられなかった。


それでも諦めず、必死に姿を探し続ける。


あの高さから落ちたのなら、相当なダメージを負っているはずだ。


それ以前に、エレナはすでに深い傷を負っている。


様々な訓練を受けている彼女が泳げないわけがないが、今は意識を失っている可能性も高い。


だとすれば、危険な状態だ。


ジークヴァルトの脳裏に、二十二年前に命を落とした諜報員の存在がよぎる。


(証拠と引き換えに命を落とすなど、絶対にさせない……!)


焦燥を押し殺し、ジークヴァルトは懸命にエレナを探す。


彼女の落ちた地点から徐々に運河の流れに沿って捜索範囲を広げ、目を凝らす。


やがて、濁った暗闇の中、長い髪をゆらゆらと揺らしながら、底へ向かって力なく沈んでいく人影が見えた。


(エレナ……!)


ジークヴァルトは全力で彼女へ向かって泳ぐと、腕を掴み強く引き寄せた。


そのまま水面へ浮き上がり、素早く岸辺へ引き揚げる。


地面に仰向けに横たわるエレナは、ぐったりしており、目を瞑ったままピクリとも動かない。


ジークヴァルトは顔を近づけ、彼女の口元に片耳を当てる。


(……息をしていない?)


サッと顔から血の気が引いた。


これは一刻を争う事態だ。


少しでも楽にさせるため、ジークヴァルトはまず、エレナの顔を覆う変装用マスクを取り去った。


偽物の顔が消え、愛する人の美しい顔が現れる。


しかしそこにいつもの笑顔はなく、まるで死人のように青白い。


ドクン、ドクンと、うるさいほどの鼓動が耳の奥で警鐘を鳴らした。


(いや、諦めるな。きっとまだ間に合う)


視界が絶望で歪みそうになるも、ジークヴァルトは必死に己を律する。


そして、すぐに彼女の気道を確保すると、迷いなく唇を重ねて息を吹き込んだ。


空気が漏れないように口をしっかり密着させ、それを二度、三度と繰り返す。


「エレナ、死ぬな! 目を覚ませ!」


「預けたネックレスを返してくれる約束だろう? あれは公爵家に代々伝わるものだから、返却してもらわないと困る!」


「お前が作る林檎パイも、まだ食べ足りない。次の新作も……楽しみにしているんだ!」


「……頼む、エレナ! 私を置いていくな……!」


人工呼吸を施すとともに、ジークヴァルトはなりふり構わずエレナに声をかけた。


そうでもしていなければ、生きた心地がせず、気がおかしくなりそうだった。


「――コフッ」 


その時、水を吐きだしながら、エレナが小さく咳き込んだ。


「エレナ!」


「……ジーク、さ、ま……?」


ハッとして名を呼びかけると、エレナの瞼がゆっくりと持ち上がる。


ぼんやりと視線を彷徨わせた後、弱々しい声ながらも返答が返ってきた。


「よかった……」


張り詰めていたものが一気にほどけ、ジークヴァルトの口から安堵の息がこぼれる。


冷え切っていた指先に、ようやく温もりが戻ってきた。


(……だが、まだ油断できない。傷の手当てもしなければ)


ジークヴァルトは自分が着ているシャツの袖を破ると、エレナの肩と腹部に巻きつけ、手際よく止血をし始めた。


「うっ……」


傷口を押さえつけられたエレナが、眉根を寄せ、苦しそうに呻く。


しかし、やがて痛みに耐えるように強張っていた表情が、少しずつ緩んでいく。  


顔にもわずかに血色が戻り、エレナはおぼろげな眼差しでジークヴァルトを見上げた。


「あの、ジーク、さま……」


「なんだ?」


「なんで、ジークさまが、ここに……?」


証拠を得た後、影のメンバーがアジトへ突入する計画については、エレナも把握していた。


たが、潜入準備に追われていたエレナは、ジークヴァルト自らが指揮を執ることまでは知らされていなかったのだ。


だからこそ、自分は夢でも見ているのかと混乱した。


咄嗟に傷口と反対側の手を伸ばし、目の前にいる彼の頬に触れる。


触れられたジークヴァルトは、その手に自分の手を重ね、そっと包み込んだ。


確かな温もりを感じたエレナの瞳が揺れる。


改めて「なぜここに……?」とつぶやいた。


「私が命じた任務だ。その現場で自ら指揮を取ったとて、別に不思議ではないだろう?」


「ですが……」


エレナの目が無言で「それは危険だ」と訴えてくる。


(エレナの方こそ、危険な任務に身を投じているのにな。実際こんな傷を負って……。なのに私の身を案じてくれるのか)


冷酷だと恐れられる自分を、こんなふうにひとりの人間として心配してくれるのは、エレナだけだ。


彼女の優しさが胸を温かく満たし、ジークヴァルトは柔らかく目を細めた。


「大丈夫だ、心配するな。総長と共に行動していたから私に危険はなかった」


「そう、ですか」


総長と一緒だったと聞き、エレナの表情が少し緩む。


それほどまでに、エレナは総長に絶対の信頼を置いているのだろう。


ジークヴァルトは二人の絆を垣間見た気がした。


そんなふうに束の間、穏やかな空気が流れたかと思った次の瞬間。


「あっ……!」


突然何かを思い出したように、エレナがハッと目を見開く。


「証拠! ……ジーク様、私が投げた証拠は!?」


そう口にして、反射的に体を起こそうとした。


だが、途中で「うっ」と苦痛の声を上げる。


「落ち着け、エレナ。まだ起き上がるのは無理だ」


「しょ、証拠……」


「安心しろ。それは無事に総長が受け取った。今は影がアジトへ突入している」


「そうですか、よかった……。私、ちゃんと、任務を達成できたんだ……」


「ああ、お前は本当によくやった。さすが影のエース『ベラドンナ』だ」


「これで、戦争も止められますよね……?」


「それは私の仕事だ。後は任せろ」


力強くジークヴァルトが頷くと、ようやくエレナの体から力が抜けた。


心底安心したように、屈託ない微笑みを浮かべる。


そうしてそのまま――ふっと気を失った。


「エレナ!」


糸の切れた人形のようなエレナの姿に、再びジークヴァルトの顔色が悪くなる。


だが、口元に耳を澄ませると、すぅすぅと安らかな呼吸が聞こえた。


首筋や手首からも脈を感じ取れる。


(意識を失っただけか、よかった……。安心して気が緩んだんだな)


エレナの命に別状がないのを確認し、ジークヴァルトも肩から力が抜けた。


目の前で眠るエレナはひどく無防備で、年相応のあどけなさを見せている。


その雰囲気は、菓子店で顔を合わせる時のエレナを思い起こさせた。


つい数刻前まで敵のアジトに潜入していた凄腕諜報員と同一人物とは、とても思えない。


「本当に……よく頑張ってくれた。ありがとう」


ジークヴァルトは胸に込み上げてくる想いを抑えきれず、そうつぶやくと――そっとエレナの唇に口づけた。


それは、救命のための行為とはまったく違う。


愛と感謝を伝えるための、優しいキスだった。


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