第24話 黒鷹会アジトへの潜入②
どうやら会議が終わったらしい。
(失敗したわ。もっと早くここを出る決断をしておけばよかった。一足遅かったみたい……)
エレナは悔しげに唇を引き結ぶ。
しかし、その内面をひた隠し、ニカらしく無表情を保った。
ボスは扉を閉めると、乱暴に髪を掻きむしりながら、こちらへ歩いてくる。
「……まったく、愚かな伯爵のせいで、計画の見直しが必要だ。余計な仕事を増やしやがって。あのお方になんて報告すればいいんだ」
ぶつぶつと文句を呟き、苦虫を噛み潰すような顔をしている。
想定外の事態に、相当動揺しているようだ。
(少しは組織に打撃を与えられたようね。これまではやられっぱなしだったから、いい気味だわ)
ボスの様子を冷静に観察しつつ、エレナは心の中で小さく歓喜の声を上げた。
彼らをさらに追い詰めるためには、あともう一歩。
今エレナが手に入れた証拠を持ち帰ることが決め手になるだろう。
「……ボス、お戻りをお待ちしてました。伯爵からまた連絡が入ったので、少し出てまいります。新情報を直接報告したいらしいので」
エレナはアジトを脱出する口実に、ニカが連絡役であることを利用することにした。
ニカは組織の窓口として普段からよくここを不在にしていたようなので、怪しまれはしないはずだ。
「あの愚か者、どんな情報を掴んだってんだ? くだらん内容だったら、少しばかり痛い目を見せてやれ」
「承知しました」
エレナはすんとした表情で、軽く一礼する。
これで無事に外に出られそうだと小さく安堵し、踵を返そうとした。
だがその時、予想外の出来事が起こった。
「まぁまぁ、そう急ぐな。こんな苛々する時こそ、お前が俺を癒してくれよ」
そう言って、ボスが馴々しくエレナの腰に手を回して引き寄せたのだ。
(えっ!? 組織内は『恋愛禁止』の厳格な掟があるんじゃなかったの……!?)
エレナは心臓が飛び出そうになった。
聞いていた話と違うと、叫び出しそうになる。
(ニカはボスと特別な関係なの……? それともただの戯れ?)
エレナの脳が高速で回転する。
「……ボス、お戯はおやめください」
結局エレナは、くるりと身を翻し、ボスから距離を取った。
こういう秘密組織では、掟は絶対のはずだ。
厳しい尋問にも耐えていたニカが、禁じられた恋愛に溺れるとは思えない。
とはいえ、この答えで正解だという確証もなかった。
ドクドクとエレナの鼓動が速くなり、背中にじとりと嫌な汗が滲んだ。
「では、ボス行ってまいります」
エレナは何食わぬ顔でそう言い、部屋を出ようとした。
震えそうになる体を必死に抑え、ニカらしく振る舞う。
(……お願い、このまま行かせて……!)
けれど、次の瞬間、その願いは無惨にも散り果てた。
「――待て」
人に命令し慣れた低く重い声が響く。
「ニカ、いつものお前なら、俺がそう言えば、間違いなく可愛く甘えてくるはずだ。それなのに、その突き放したような態度……」
その一言でエレナは悟った。
自分がニカらしくない振る舞いをしてしまったことを。
首筋から冷たい汗が吹き出す。
ボスはすっと表情を消し、探るような鋭い視線をエレナに浴びせかけた。
エレナは無意識のうちに重心を落とし、太腿に忍ばせた武器に手を伸ばしかける。
「……よくよく見れば、変装か? 貴様、ニカではないな!」
ぐっとエレナは奥歯を噛みしめる。
(くっ、もう誤魔化せないわ。でもバレたのはこの男にだけ。ボスさえ始末すれば……!)
そう思い、暗殺を試みようとした刹那――
「おい、お前たち、直ちに幹部室に来い! 鼠が入り込んでるぞ! ニカは偽物だ!」
それより先に、ボスが大声を張り上げた。
途端に下の階の方から、階段を登ってくる複数人の足音が聞こえてくる。
(まずいわ。逃げるしかない……!)
エレナは伸びてきたボスの手を鮮やかに躱すと、急いで部屋を飛び出した。
追手は下から迫ってくる。
ならば、向かう先は上しかない。
タッと走り出し、階段を駆け上る。
(ここは確か四階建てだったわね。どうしよう、逃げ場がこれ以上ないわ……!)
四階は物置きとして使われており、幸いにも人の気配はなかった。
エレナは無我夢中で走りながら、どこかに隠れ場所がないか目を凝らす。
(あっ、あそこに扉があるわ……!)
その時ふと目に入ったのは、通路の先にある古めかしい扉だった。
背後から迫る足音に気を取られていたエレナは、深く考えることなく、吸い寄せられるようにそちらへ向かった。
だが、その選択は致命的な間違いとなった。
(えっ……、うそ……)
なんと扉を開けた先は、荷揚げ用の張り出し通路だったのだ。
通路の下では、黒い運河が月明かりを映して揺れている。
そう、つまりは行き止まり。
ついにエレナは退路を絶たれ、追い詰められてしまった。
「ハハハ、もう逃げ場はないぞ」
足を止めたエレナに、ボスを筆頭とした黒鷹会の者たちが取り囲む。
事ここに至って、エレナは己の窮地を悟った。
(逃げ切れそうにないわね。……でも、証拠だけはなんとかして届けなきゃ)
たとえこの身がどうなろうとも、この情報だけは仲間に渡さなければならない。
二十二年前、同じように黒鷹会へ潜入し、命と引き換えに情報を残したあの諜報員のように。
エレナは敵を鋭く睨みつけながら、密かに外の気配を探った。
(今頃、このアジトは包囲されているはずだわ)
潜入はエレナに任されたが、他の影のメンバーが何もしていないわけではない。
彼らは証拠の確保後すぐに黒鷹会を壊滅させるべく、いつでも突入できるよう周囲に控えている手筈となっていた。
(あ、やっぱり、近くにいるわね)
闇の向こうに味方の気配を感じ取り、エレナは覚悟を決めた。
もう迷っている時間はない。
「おい、貴様! どこの者だ! 吐け!」
「…………」
ドスの効いたボスの声を聞き流し、エレナは素早く懐から木製筒を取り出す。
「はっ、そんなものでどうする気だ? どう足掻いたって逃げられないぞ」
その言葉も当然無視し、くるりと身を捻った。
(よし、このまま、証拠だけは仲間に……!)
だが、さすがにボスは一瞬でエレナの意図を見抜いた。
「まさかっ! それは……貴様、金庫から何か盗んだのか!?」
「ふふっ、ご名答よ」
「くそっ、やられた! おい、お前ら! あの女を射れ! 絶対にあの筒を取り返すんだ!」
ボスが声を張り上げた途端、ヒュンッ――と風を切る音とともに、黒い矢がエレナの肩を深々と射抜く。
「……ッ」
鈍い衝撃が肩を貫いた。
腕の感覚が消えるほどの痛みに襲われ、エレナは顔を歪める。
どうやら、密輸していたクロスボウをアジトにも保管していたらしい。
軍用の武器の威力は凄まじく、エレナは思わずふらついた。
(このまま捕まるのは駄目よ。絶対に、証拠だけは届けなきゃ……!)
なんとか痛みに耐え、エレナは歯を食いしばる。
次々に飛んでくる矢をかわしながら、最後の力を振り絞った。
(お願い、届いて……!)
そして、仲間の潜んでいる方向に向かって、木製筒を全力で投げつけた。
「貴様っ!」
怒りで顔を真っ赤にしたボスが、鼓膜が破れそうなほどの声で叫んだ。
(絶対、大人しく捕まってなんてやらないわ! 私は最後まで誇り高い諜報員でいたいもの!)
ドスッとまたクロスボウの矢がエレナの腹を抉り、鮮血が舞った。
「ぐっ……」
エレナから苦しげな呻き声がこぼれる。
誰の目にも、絶体絶命の状況だった。
それでも、エレナの瞳はまだ光を失ってなどいなかった。
「私が何者か知りたい? ええ、ボスが察した通り、ニカではないわ。……でも、私が誰かは教えてあげない。情報も何も漏らさない」
「ふんっ、逃げ場がない貴様は、もう我らの手の中だ。盗みを働いた貴様には、容赦ない拷問が待っている。覚悟しろ!」
「ふふっ、拷問なんて不可能よ?」
あまりの激痛に呼吸を乱しながらも、エレナは不敵に微笑んだ。
この場に似つかわしくない美しい笑みに、一瞬辺りが静まり返る。
その束の間の隙をエレナは見逃さなかった。
「だって私は……誰にも捕まらないもの」
そう言い残すと、躊躇なく運河の暗い水面めがけて飛び込んだ。
ここは四階。当然ながら相当な高さがある。
いくら訓練した諜報員とはいえ、軽傷では済まないだろう。
しかもエレナは怪我を負っている状態のため、命を落とす可能性もゼロではなかった。
(そんなことは分かってるわ。でも、敵に捕まるわけにはいかない。情報を守るためなら――この命だって惜しくない)
夜の闇へ落下していく中、エレナはそっと首元へ触れた。
そこには、服の下に隠したネックレスがある。
「……ジーク様、ごめんなさい」
震える唇から、小さな声が漏れた。
無事に帰ってこのネックレスを返すと、彼と交わした約束を忘れてはいない。
けれど、エレナは自分の行動に後悔はしていなかった。
自ら持ち帰れなかったものの、なんとか大事な証拠は仲間に託せた。
諜報員として、任務をやり遂げられたことに満足している。
ただ、こうなった今、ジークヴァルトとの約束が果たせそうにないことだけが心残りだ。
傷ついた体以上に、胸がぎしりと痛む。
(……約束を守れなくて、ごめんなさい。もう一度、ジーク様に……会いたかった)
その直後、エレナの体は冷たい水面に叩きつけられ――深い闇へと意識を呑み込まれていった。




