第19話 深く重いため息②
(私は……取り返しのつかない言葉を、エレナに言ってしまったんだな)
公爵家当主であり、国家安全保障局長官のジークヴァルト・シュタルクともあろう者が、己の感情に振り回されてしまった。
自分のことしか考えていなかった。
もっと、エレナの気持ちも考えるべきだった。
先ほどまで怒りに頬を染めていたエレナは、今や泣きそうな顔をしていた。
こんなつらく悲しそうな表情をさせたかったわけではない。
だが、そうさせてしまったのは、紛れもなくジークヴァルトなのだ。
「好意を伝えてくださったこと、ありがとうございました。嬉しかったです。――でも、閣下が好きなのは……『菓子店のエレナ』だと思います。『諜報員である私』ではありません」
エレナは再び口を開くとそう言った。
違う、と即座に否定したかったが、強くは出られなかった。
これほどエレナを傷つけてしまった自分に、何か言う資格はあるのだろうかと躊躇したのだ。
エレナは淡々と言葉を紡いでいく。
――「これまでと変わらず任務をお命じください。必ずお力になります」
――「もうエレナと呼ばないでください」
――「あの店には来ないでいただけると助かります」
どれもが決別を告げる言葉で、容赦なくジークヴァルトの心に深く突き刺さる。
(無理だ。今までと同じように、命令などできない。……あの店でエレナと過ごす穏やかな時間を、知らなかった頃にはもう戻れない……)
そう伝えたいのに、言葉が出てこなかった。
そしてついに最後の時がやってくる。
「ジーク様、さようなら。……そして、シュタルク公爵閣下、総長経由ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします」
エレナは見惚れるような美しい笑顔を浮かべ、頭を下げると――そのまま部屋を出て行ってしまった。
ジークヴァルトはその後ろ姿を見送るだけで、後を追いかけなかった。
いや、追いかけられなかった。
感情のままに言葉を発し、エレナを傷つけてしまった直後だったため――一歩も足が動かなかったのだ。
(エレナとこれっきりにするつもりなど私にはない。だが……これからどうすべきか……)
はぁと深く重いため息を吐き出す。
くっきりと刻まれた眉間の皺を揉みながら、ジークヴァルトは項垂れた。
◇◇◇
(あの夜、なぜ私はいつものように感情を制御できなかったんだ。得意なはずだろう……?)
胸に込み上げてくる想いに突き動かされ、無神経な言葉を放ってしまったことが、エレナとの衝突の原因だ。
初めて味わった嫉妬は、感情制御に長けたジークヴァルトの理性さえ揺るがした。
将来重職を担う身として、幼い頃からあれほどまでに訓練してきたのに、この有様では意味がない。
ジークヴァルトは、ふぅと小さく息をつく。
果たして自分はこれから、今までと変わらず、冷静に判断を下せるだろうか。
エレナに関することでも、感情を表に出さずにいられるだろうか。
そんな懸念が芽生える。
「――ところで、エレナは正体を隠していたことに対する処分があるかもと申しておりましたが……して、長官はいかがするおつもりですかな?」
その時、再び総長がジークヴァルトに問いかけてきた。
探るような眼差しを向けられ、意識が一気に現実へ引き戻される。
これは影の総長としての確認か。
それとも、彼女の養父としての牽制だろうか。
一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、どちらにしてもジークヴァルトの答えは変わらない。
「処分などするつもりはない。彼女は諜報員だと口にしなかっただけで、積極的に私を欺こうとしていたわけではないのは理解している」
ジークヴァルトは総長を見据えると、はっきりとした口調で断言した。
すると、総長にしては珍しく、目に見えて肩の力を抜く。
「……それを聞いて安心しました」
そう言ってやや表情を緩ませたものの、すぐさまいつもの厳格な顔に切り替わった。
そして次の瞬間――
「――これからますますベラドンナの力は必要になるでしょうからな」
そんな意味深な一言をこぼした。
不穏な響きに、ジークヴァルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「それは、どういう意味だ?」
鋭い眼差しで総長に真意を問うと、彼は居住まいを正して真剣な面持ちになった。
たちまち静かな緊張感が部屋を支配する。
「ここからが、今日の報告の本題です。……黒幕と目されている『黒鷹会』ですが――奴らはただの実行者。その裏には真の黒幕が存在します」
「何……?」
衝撃的な報告に、ジークヴァルトは目を見張った。
昨夜、エレナはそんな話を一切していなかった。
(となると……エレナから報告を受けた後、総長が独自に得た情報か?)
ジークヴァルトは表情を引き締め、視線で続きを促す。
「あれは今から約二十二年前のことです。当時もインメルの過激派が、我が国との戦争を引き起こそうと企んでいたのですよ。その際に暗躍していたのが――インメル工作員組織『黒鷹会』でした」
「なんだと……!?」
予想外の事実に、ジークヴァルトは思わず声を荒げた。
約二十二年前といえば、ジークヴァルトはまだ五歳だ。
どうりで『黒鷹会』の名に聞き馴染みがないわけである。
わずかに記憶に掠ったのは、おそらく国王や父あたりから過去の事件として、聞かされたことがあったからだろう。
(しかし、監視対象となる危険な組織なら、忘れるはずがない。ということは……)
「ええ、長官のご想像の通りですよ。当時、我が国は『黒鷹会』の存在を掴み、完全に壊滅させています」
「やはりな。……二十二年前に戦争が起きた事実がないことを踏まえると、我が国は戦争を回避できたのだな?」
「その通りです。水面下でインメルの穏健派とやり取りし、戦争の回避に成功しました。この事実はごく一部の者しか知らないはずですが、現国王陛下なら詳しくご存じかと」
「なるほど。……だが、当時潰したはずの『黒鷹会』が、今になってまた復活か。名が同じというだけの可能性はないのか?」
「その可能性は低いと言わざるを得ませんな。なにしろ、組織を象徴する紋章がまったく同じですから」
総長はそう言うと、昨夜エレナが入手した協定書に目を向けた。
そこには黒い鷹の紋章が刻まれた印章が押されている。
(二十二年前なら、総長はおそらく三十歳前後か? 彼がこの件にこれほど詳しいのも納得だ)
当時を知る総長だからこそ、エレナから協定書を受け取り、この事実に気づいたのだろう。
まさか二十二年も前に潰れた組織が蘇り、当時と同じような目的で暗躍しているとは、予想外にも程がある。
ジークヴァルトが考えていた以上に、根の深い陰謀らしい。
(……これは早々にでも、御前会議を開かねばならないな)
もはやジークヴァルトだけでは手に余る。
国王や王太子、各大臣で結束して事に当たらねばならないだろう。
そこまで考えた時、ふと聞きそびれていたことを思い出した。
あまりに衝撃的な事実が続き、一番重要な点を後回しにしてしまっていた。
ジークヴァルトはソファに少し深く座り直し、静かに口を開く。
「――総長は最初に『黒鷹会』はただの工作員組織で、真の黒幕は別にいると言ったな。……その黒幕は分かっているのか?」
すると総長は歯を食いしばり、わずかに顔を歪めた。
そして、低く絞り出すように告げる。
「おそらくインメルの過激派貴族である可能性が高いですが……そこは当時も今も掴めておりません」
「そもそも真の黒幕がいるという情報は、どうやって得たものなんだ?」
「……当時、潜入していた影のひとりが自らの命と引き換えにもたらしたものです。この情報が決め手となり、穏健派との交渉が始まり――結果的に戦争を回避するに至ったわけです」
「そうか……」
ジークヴァルトは感情を抑えた声で、ただ静かに相槌を打った。
だが、その表面上の態度とは裏腹に、心の内は複雑だった。
(……潜入によって、命を落としたのか……)
任務で影が亡くなるのは、決して珍しいことではない。
それほどまでに危険と隣り合わせの任務も多い。
これまでのジークヴァルトなら、その諜報員の覚悟と成果を称えて終わっていただろう。
実際、その情報が戦争回避の決め手になったのだから、亡くなった諜報員の仕事ぶりは国益に貢献している。
だが、今のジークヴァルトは、潜入した諜報員が命を落としたという事実に、激しく心を揺さぶられていた。
理由は明白である。
――エレナの姿を重ねたからだった。
もしも、自分が命じた任務により、エレナが命を落としたら?
想像するだけでゾッとする。
とてもではないが、エレナにそんな任務は命じられそうにない。
(……指摘された通り、もしかして私は『菓子店のエレナ』を好きなのだろうか。『諜報員のエレナ』は受け入れられない……?)
答えの出ない問いが、頭の中を巡る。
ただでさえエレナとのことで悩ましいのに、黒鷹会や真の黒幕の問題も考えねばならない。
かつてないほどジークヴァルトの胃がしくしくと痛む。
ジークヴァルトは総長との会合を終えると、ため息を漏らし、そっと腹のあたりに手を添えた。
こんな時こそあの店で甘い菓子を食べながら、穏やかな時間を過ごしたい。
けれど、それは叶わない。
ジークヴァルトは懐から胃薬を取り出すと、口へ放り込む。
そして、重い腰を持ち上げた。
(……やらねばならないことが山積みだ。今はエレナのことは一度忘れて、目の前の仕事に集中しよう)
ジークヴァルトは自分にそう言い聞かせ、御前会議の召集をすべく動き出した。
しかし、まさにその御前会議で――ジークヴァルトは人生最大の葛藤に直面することになる。




