第17話 告白と衝突
「――エレナ、もう色仕掛けはするな」
「へ?」
新たな任務の命令かと緊張していたエレナは、耳に飛び込んできた信じがたい言葉に、間抜けな声を上げた。
意味が理解できなくて、何度も目を瞬く。
「あの……『色仕掛けをするな』と聞こえた気がしたんですが……聞き間違いですよね?」
「いや、合っている。そう言った」
「えっ、冗談ですよね? ……それでは任務になりませんから」
「代わりを用意する」
「代わり? お言葉ですが、私以上に色仕掛けが得意な人材は影にいません」
「……新たな人材を影に入れれば済む話だ」
「それはシュタルク公爵閣下の管轄外ですよね。影に所属する人材を采配するのは総長です」
最初は驚き固まっていたエレナも、話が進むにつれ、次第に眉を顰め始めた。
ジークヴァルトは一体何を言っているのかと、訝しげな眼差しで彼を見つめる。
しかし、ジークヴァルトはやけに頑なだった。
まったく意見を翻すつもりはないようで、繰り返し同じことを口にする。
「それでも色仕掛けは禁止だ」
「なぜです? 任務の成功率が落ちてもいいと、そうおっしゃるんですか?」
「いや、それは困るが」
「でしたら、円滑な任務遂行のために、色仕掛けも手段として必要です」
「だが、しかし……やはり駄目だ」
(もう、さっきから何なの!? 訳が分からない……!)
押し問答が続くうちに、苛立ちが募る。
何を言われようとも、エレナは色仕掛けを捨てるつもりはなかった。
だからこれ以上、無意味なやりとりをしたくない。
エレナはこの話題に終止符を打つべく、真面目な顔でジークヴァルトに問うた。
「……それは、命令ですか」
「違う」
「では、何なんですか? そもそも影がどんな手段を取ろうとも――公爵閣下には関係ありませんよね?」
ぴしゃりとエレナは言い切る。
すると、さすがのジークヴァルトも言葉を詰まらせた。
一体なぜこんな話になったのだろうか。まったく分からない。
とはいえ、ひとまずこれで終わりだろう。
エレナは無意識のうちに力の入っていた肩を緩ませ、そっと息をついた。
だがその判断は、いささか早計だったらしい。
まだ何か言い足りないことがあるのか、ジークヴァルトが再び口を開いた。
「…………」
「?」
けれど、あまりに声が小さすぎて聞き取れない。
エレナは首を傾げる。
「――エレナのことが、好きなんだ」
「好き……?」
今度ははっきりと聞こえた。
ただし、耳には届いたものの、意味がまるで理解できない。
(どう解釈したらいいの? 私が知らないだけで、貴族ではこの言葉に他の意味でもあるのかしら……?)
エレナが戸惑っていると、ジークヴァルトは物分かりの悪い相手に言い聞かせるように、さらに言葉を噛み砕いた。
「異性として好意を抱いている。……だから、任務とはいえ――他の男に笑いかけるお前を見たくない」
「……え?」
告げられた言葉の意味が脳に届くまで、数秒の空白があった。
その間、エレナは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まってしまった。
それほどまでに、色んな意味で衝撃的な言葉だったのだ。
(ジーク様が、私を? 異性として、好き……!?)
ドクン、ドクンと、大きく心臓の音が鳴り響く。
最初に感じたのは――驚きと喜び。
ジークヴァルトが自分を好きだなんて、信じられない。
夢でも見ているのではないかと、自分の正気を疑いたくなる。
その一方で、エレナも彼に好感を抱いていたこともあり、じわりと胸の内に甘い気持ちが広がった。
けれど、その甘い余韻は長く続かなかった。
もうひとつの大きな別の感情が、ふつふつと胸の奥から込み上げてくる。
それは――怒りだった。
エレナは膝の上でぎゅっと手を握りしめ、ジークヴァルトを見据える。
「……シュタルク公爵閣下は、影の仕事を――私の生き方を否定するんですか?」
「エレナ?」
思いがけず、地を這うような低い声が出た。
力を込めすぎた拳は血の気が引き、指先がわずかに震えている。
ジークヴァルトにとっては、このエレナの反応は予想外だったのだろう。
相変わらず眉間には深い皺が寄ったままだが、漆黒の瞳だけが、困惑したように揺れている。
「私は五歳の頃に総長に引き取られて以来、一流の諜報員となるために育てられてきました。色仕掛けも、私が磨いてきた武器のひとつです。……それをやめて男に笑いかけるなというのは――私の人生や仕事を否定することと同じです」
話しているうちに、次第に怒りを通り越し、エレナの胸にはだんだんと悲しさが込み上げてきた。
(ジーク様は、分かってくれると思ったのに……)
立場は違えど、お互い国のために身を捧げてきたのは同じだ。
たとえ冷酷無慈悲と言われようとも、国益のために己の感情を殺し、冷静に判断を下してきたジークヴァルト。
一方エレナも、国を守るべく命じられた任務のためなら、後ろ暗いことにだって手を染めてきた。
だから、心のどこかで、勝手に期待していたのだ。
たとえ正体がバレてしまっても、今までのようには過ごせないものの、ジークヴァルトならエレナの仕事に理解を示してくれるはずだと。
菓子店で彼の責任感の強さ、志の高さを垣間見たからこそ、余計に。
(勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになるなんて……私って馬鹿ね)
エレナは自嘲気味な笑みを浮かべる。
すると、ジークヴァルトは珍しく少し慌てたように言葉を発した。
「いや、違う。エレナの人生や仕事を否定するつもりなどない。……ただ、私はお前が好きだからこそ、他の男と親しくする姿を見たくないだけだ」
「シュタルク公爵閣下、でもそれが私の仕事なんです。任務となれば、色仕掛けに限らずなんだってします。それが国のためだから。……立場こそ違えど、閣下も同じではありませんか?」
「…………」
痛いところを突かれたのか、ジークヴァルトは険しい表情のまま、静かに視線を伏せた。
そんな彼の姿を視界に収め、エレナはゆっくりと深呼吸をする。
そして決別の意を込めて、はっきりと告げた。
「好意を伝えてくださったこと、ありがとうございました。嬉しかったです。――でも、閣下が好きなのは……『菓子店のエレナ』だと思います。『諜報員である私』ではありません」
「いや、私は――……」
「いいえ、違ってなどいません。閣下は今、きっと混乱なさってるんです。だって、さっき私の正体を知ったばかりですから」
「それは確かに一理ある。だが……」
「先ほども申し上げました通り、これまで閣下に正体を隠しており、本当に申し訳ありませんでした。処分は心得ております。……でも、もし私の仕事ぶりを認めてくださるなら……今後もどうか、これまでと変わらず任務をお命じください。必ずお力になります」
「エレナ……」
「どうぞ、もうその名で呼ばないでください。私は影所属の諜報員『ベラドンナ』ですから。――それと、できればもう、あの店には来ないでいただけると助かります」
言うべきことをすべて伝え終えると、エレナはすっと席から立ち上がった。
今度こそ本当に、ジークヴァルトとはお別れだ。
ここで決別すれば、顔を合わせることもないだろう。
そう思うと、胸がぎゅっと切なく締めつけられる。
(……ああ、私、ジーク様のこと……好きだったんだわ)
こんな時になって、エレナは唐突に自分の恋心を自覚した。
異性に慣れてないからと、ずっと誤魔化してきたけれど――本当はもうとっくの前から彼のことが好きだったのだ。
(別れの瞬間に気づくなんて、本当に私は馬鹿だわ)
エレナの唇が皮肉げに歪む。
初めて恋をしたエレナには、その想いをどう扱えばいいのか分からなかった。
ただただ胸が苦しくて、思わず胸元に手を当てる。
気持ちを持て余しつつも、早くここを去らなければいけないことだけは理解していた。
「ジーク様、さようなら。……そして、シュタルク公爵閣下、総長経由ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします」
エレナは精一杯の微笑みを浮かべ、最後にそう告げると、ジークヴァルトに美しく一礼した。
その後は振り返らずに、踵を返す。
視界の端でジークヴァルトが手を伸ばそうとした姿が一瞬だけよぎった。
だが結局、彼は途中でその手を止め――エレナを呼び止めることも、追いかけてくることもなかった。




