第16話 隠し事の終焉
(な、なんで……ジーク様が、こんなところに!?)
エレナは思いがけない遭遇に、頭が真っ白になった。
驚きのあまり声も出ず、ただジークヴァルトを見つめる。
彼は菓子店に来る時よりも、上質な服に身を包んでいた。
ここが貴族も訪れる新市街だからだろう。
場所に合わせた身なりをすること自体に違和感はない。
けれど、どう考えてもおかしい。
ひとけのない路地裏など、公爵家当主がひとりで来るような場所ではない。
だが、そう思ったのは相手も同じだったのだろう。
「エレナ、こんな夜更けに、なぜこんな場所に……?」
沈黙を破るように、ジークヴァルトが口を開いた。
彼の表情には、驚きと困惑が滲んでいる。
(どうしよう。何て答えるべき……?)
彼に対して嘘はつきたくない。
でも本当のことはもっと言えない。
エレナは言葉に窮してしまった。
動揺から足元がおぼつかなくなり、ふらりとよろけそうになる。
その拍子に、エレナの胸元から一枚の紙が滑り落ちた。
どうやら、ぶつかった時に差し込んだ紙がずれてしまったらしい。
協定書がひらりと宙を舞う。
(あっ、うそ……!)
大切な証拠を落とすなど、なんたる失態か。
いまだかつてない己の迂闊さに、エレナの顔から血が引いていく。
慌てて回収しようと手を伸ばした。
しかし、時すでに遅し。
「……何か落ちたようだが」
そう言って、エレナより先にジークヴァルトがそれを手にしてしまった。
彼は地面に落ちた紙を無造作に拾い上げると、軽く砂埃を払ってエレナに手渡そうとして――大きく目を見開く。
何気なく視線を走らせた書面に、見逃せない内容が記されていたからだ。
「これは……」
言葉を詰まらせ、信じられない思いでエレナに目を向けた。
(どうしよう、見られた……!?)
協定書そのものを見られることは、まったく問題ない。
総長を経由して、もともとジークヴァルトの手元に届けられるものだったからだ。
ただ、状況が悪い。
今のエレナは、彼にとって『菓子店のエレナ』だ。
当然、ただの店主がなぜこのようなものを持っているのかと、ジークヴァルトは訝しるだろう。
(……きっと、もう隠しきれない。ジーク様なら、私の正体に気づいてしまうわ)
エレナの額に汗が滲み出す。
ジークヴァルトは無言のまま、眉根を寄せて、改めて協定書にじっくり目を通している。
やがて顔を上げると、今度はエレナの頭からつま先まで、鋭い視線をさっと走らせた。
(ううっ、見定められてる……)
沈黙が酷く重い。
これ以上ミスを重ねまいとエレナも黙っていたが、もう限界だった。
思わず一歩後ずさり、逃げ腰になる。
だが、それに気づかないジークヴァルトではない。
彼は迷いなくエレナに向かって手を伸ばすと、細い手首をがっしり掴んだ。
「エレナ、お前は――『影』だったのか」
「…………」
「その手持ちの荷物は変装道具か? 派手なドレスが見えている。それにこの協定書を入手できる実力。影でも並の諜報員ではないはずだ。私の予想が正しければ――影のエース・『ベラドンナ』だろう?」
「……」
エレナは無言で目を伏せた。
(……ついに、バレてしまったわね)
脳裏には、菓子店でジークヴァルトと過ごした穏やかなひとときが浮かぶ。
あの時間はもう二度と戻ってこない。
あれは、『店主と常連』であったからこそのものだった。
彼がエレナの正体を知った以上、否応なく関係性は変わってしまう。
『国家安全保障局長官と影の諜報員』――命令を下す者と、それに従う者に。
(きっとジーク様は、自分を騙してたのかとお怒りになるわよね……)
ジークヴァルトは当然、エレナが彼の役職を知っていたことに気がつくだろう。
その上でエレナだけが自分の正体を隠し、彼に接していた事実にも思い至るに違いない。
(……ああ、だから総長は言ったんだわ。距離を置きなさいって)
総長はこんな事態を見越していたのかもしれない。
ジークヴァルトの不興を買い、仕事に影響を及ぼすことを懸念したのだろう。
(私……影を辞めさせられるのかしら)
ジークヴァルトを欺いていた罪悪感と、今後の不安に胸が締めつけられる。
そしてなによりも、彼との温かな時間を失った喪失感に体が小刻みに震えた。
(……こうなった以上、もう沈黙を守っても意味がないわ。……まずは謝らなきゃ)
エレナは意を決し、ゆっくりと顔を上げる。
途端にジークヴァルトと目が合い、思わず怯みそうになったが、なんとか腹に力を込めて口を開いた。
「……おっしゃる通りです。この期に及んで、否定はいたしません」
「エレナ……」
「シュタルク公爵閣下、今まで正体を黙っており、大変申し訳ございませんでした。処分につきましては、いかようにも。総長を通してご命令ください」
「…………」
「あと、申し訳ございませんが、そちらの物証は一度お返し願いたく存じます。他の証拠と合わせて、改めて総長から閣下へご報告をさせていただきますので」
エレナは諜報員としての顔になると、淀みなくそう言って、頭を下げた。
言葉遣いと態度で明確に上下関係を示し、本来の正しい姿で接する。
しかし頭を上げると、いつも以上に険しい表情をしたジークヴァルトの顔が、目に飛び込んできた。
(……あれ? 火に油を注いだ? な、なんで!?)
謝罪が気に障ったのだろうか。
それともエレナが話すことすら、気に食わないのだろうか。
ジークヴァルトにどう接していいか分からなくなったエレナは、困り果てて眉を下げる。
するとその時、遠くから人の話し声がかすかに耳に飛び込んできた。
もしかすると、クラブからの追っ手かもしれない。
変装は解いているとはいえ、油断は禁物だ。
「あの、これ以上ここに留まるのは得策ではないかと」
「……ああ、確かにそうだな」
ジークヴァルトも人の気配を察したようだ。
ふと路地の奥へ視線を向け、軽く頷く。
(ここでジーク様とは、お別れね。……もう二度と顔を合わせることはないと思うと――やっぱり寂しいわ)
エレナの瞳に切なげな色が浮かぶ。
しかし一度まぶたを閉じると、それは跡形もなく消え去っていた。
気を引き締めたエレナは、ジークヴァルトから協定書を返してもらうと、再び胸元にしっかりしまい直す。
そして一礼して踵を返そうとしたところで――立ち止まった。
「シュタルク公爵閣下、あの……手を離していいただいても?」
「駄目だ。ひとりでどこかへ行こうとしているからな」
「? でも、ここから離れないと……」
「ああ、もちろん場所は移動する。――ただし、お前も一緒にな」
「ええっ!?」
意表を突かれて目を丸くするエレナを尻目に、ジークヴァルトは歩き出す。
手首を掴まれたままのため、エレナも彼の後を追うしかない。
二人して足音を潜め、路地裏を進む。
(一体、どこに行くつもりなの……?)
エレナが戸惑っているうちに、ジークヴァルトはある店に辿り着き、躊躇なく中に足を踏み入れた。
出迎えに現れた支配人らしき男に、なにやら小声で伝えると、すぐに奥の個室へと通される。
気づけば、あっという間に、エレナはジークヴァルトと二人きりになっていた。
「こ、この店は……?」
「会員制サロンだ。個室には防諜対策も施されていて、なかなか重宝している」
エレナは部屋の中にさっと視線を走らせた。
先ほどまでいた煌びやかな高級クラブとは正反対の、黒を基調とした重厚感のある部屋だ。
ひと目で貴族向けの場所だと分かる。
(そんなところへ、私を連れてきても大丈夫なの?)
個室に入ってしまえば人目がないとはいえ、その道中は違う。
店内に入ってからここまで、エレナは好奇心に満ちた視線を背に感じていた。
シュタルク公爵といるのは誰だと探られていたのだろう。
(どういうつもりなの? ……ジーク様が何を考えているのか、まるで分からないわ)
数々の男たちを手玉にとってきた凄腕諜報員のエレナも、ジークヴァルトの心だけは読めなかった。
だから単刀直入に訊ねる他ない。
「……あの、どうしてこちらへ? 私、まだ任務の途中なので、総長へ報告に向かいたいのですが……」
「エレナには色々聞きたいことがある。……そうだな、まずは今回の任務のことを聞かせてくれるか。先ほど、他にも証拠品があると言っていたな?」
「ですが」
「総長から報告を受けるのは私だ。先に聞いてもなんの問題もない」
そう言われてしまうと、何も言い返せない。
エレナは小さく息を吐くと、先ほど見せた協定書に加え、録音した音声も提示しながら、素直に一つひとつ説明を始めた。
ジークヴァルトは腕を組み、エレナの報告にじっと耳を傾けている。
徐々に眉間の皺が深くなっていくのが少し気になったが、深刻な内容なのだから当然だ。
「――という状況から、『黒鷹会』がここ最近起きた事件の黒幕だと思われます。その狙いは、我が国とインメル間での戦争を引き起こすことかと」
「黒鷹会……以前どこかで耳にした気がするな。その件は至急こちらでも調べよう」
「お願いします」
「それにしても、黒幕へと繋がる手掛かりを掴んだ上に、物証まであるとは――期待以上の成果だ」
「ありがとうございます」
「数週間も潜入していたのか。……どうりで菓子店が営業していないわけだ」
「えっ?」
直前まで国防にかかわる重要な話を繰り広げていたのに、急にジークヴァルトの口から菓子店の話が出てきて、思わずエレナは目を見張る。
聞き間違えかと顔を上げると、彼と目が合った。
「菓子店が不定期営業だったのは……影の任務のせい、ということか」
独り言のようにそう口にしたジークヴァルトは、これまでを思い返し、納得するように頷いている。
(黒鷹会のことじゃなく、気になるのはそこなの……!?)
エレナは予想外の反応に瞳を揺らした。
さらに思わぬ展開は続く。
「それにこの音声でリリアンと呼ばれている女、エレナなのだろう? まるで別人だな。……噂には聞いていたが、ベラドンナの変装技術には驚かされる」
「……一応、得意分野ですので」
「そういえば、以前ベラドンナとは仮面夜会でも出くわしたな。つまり、ライノット侯爵を誘惑していたのも――エレナだったのか」
ジークヴァルトはまるで答え合わせでもするかのように、エレナに質問を重ねてきた。
気のせいか、次第に彼の声が沈んでいく。
そして最終的に、ジークヴァルトは押し黙ってしまった。
考え込む時の癖なのか、トントン……と人差し指でテーブルを叩いている。
(黒鷹会の存在を掴んだ今、次にどう動くかを検討しているのかしら?)
命令を下す立場のジークヴァルトは、きっといつもこうして思考を整理しているのだろう。
菓子店で見る彼とは違う一面に、ドキッとして視線が吸い寄せられる。
思わずまじまじと眺めていると、ふいに音が止まった。
考えがまとまったらしいジークヴァルトが顔を上げ、エレナをまっすぐに見つめる。
(何か任務を告げられるのかしら……?)
その思いのほか真剣な表情に、エレナは姿勢を正し、ごくりと唾を呑んだ。




