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凄腕スパイは甘い嘘を焼き上げる 〜秘密の菓子店を営んでいたら、冷酷公爵様が常連になりました〜  作者: 美並ナナ


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第15話 高級クラブへの潜入②

エレナが背筋に冷たい汗を滲ませていると、伯爵が懐から一枚の紙を取り出した。


それを男爵の目の前にゆらりと掲げて見せる。


「ほら、よく見ろ。ワシも無能ではない。組織とは協定書をきちんと締結してあるから安心しろ」


残念ながら、エレナの位置から中身までは見えなかった。


ただ、話ぶりから察することはできる。


おそらく先ほど伯爵が口にしたことが紙に記されているのだろう。


(協定書ということは……当然、相手の印章も押されているわよね?)


人知れず、エレナはごくりと唾を呑む。


まさに欲していた証拠そのものだ。


なんとしても手に入れたい。


しかし焦りは禁物だ。疑われぬよう、慎重に事を運ばなければならない。


「……分かりました。閣下の傘下に加わります」


「ハハハ、よくぞ決断した! 賢明な判断だ。さぁさぁ、もっと飲め。新しい仲間を歓迎せねばな」


男たちがワッと声を上げ、再び酒をあおり出す。


伯爵も協定書を懐に仕舞い直し、満足そうな笑みを浮かべてグラスに口をつけた。


エレナはその様子を視界に収める。


(クラブ嬢たちがいるにもかかわらず、こんな機密性の高い話をするなんて油断しすぎよね。……でも、任務遂行の上では好都合だわ)


エレナは伯爵に時折しなだれかかり、理性を溶かすような甘い笑みを浮かべ、酒を注ぎ続けた。


自分も酒を飲むふりをし、ほんのり頬を赤らめる。


徐々に舌ったらずな口調にして、酔った様子を装い、相手の警戒心を下げるよう心がけた。


そうしてしばらく経った頃、満を持して動き出す。


「ふふふっ、閣下ったらぁ、お腹柔らか〜い! ぷにぷにしてて気持ちいい〜」


「こらこら、リリアン。どこを触っている」


「だってぇ、難しい話をしてる閣下はすっごくかっこよくて近寄りがたかったんだもん。わたし寂しくって。でも閣下のお腹を触ってるとなんか安心するの〜!」


エレナは甘えた声で、戯れるように伯爵に触れた。


伯爵は隠しもせずにデレっと頬を緩める。


その様子から、もうほとんど泥酔状態であることが窺えた。


「ハハハ、可愛い奴め。だがリリアンこそ、立派な柔らかいものを持ってるではないか。ほれ!」


完全に理性を崩壊させた伯爵は、迷いのない手で、エレナの胸を鷲掴みにした。


(ちょっと、いきなり!? 変態……っ!)


心の中では絶叫を上げるも、もちろん顔には出さない。


代わりに恥じらうような声を出す。


「きゃぁっ! もう、閣下ったらぁ!」


「おおっ、素晴らしい触り心地ではないか」


「やだぁ。恥ずかしい〜!」


エレナは照れた様子で身を捩り、その拍子にわざと机上のワイングラスを倒した。


「あっ! ごめんなさいっ!」


上手い具合に伯爵の足元にワインが溢れ、慌てて体を屈めてリネンで拭う。


伯爵の注意もそちらに逸れ、足元を覗き込むよう前屈みの体勢になった。


(今だわ……!)


エレナはその一瞬の隙を見逃さず、手際よく伯爵の懐から目当てのものをくすねた。


奪った協定書は、ドレスの裾をわずかに持ち上げ、太ももを締め付ける絹のガーターの裏に素早く挟み込んだ。


ほんの一瞬の出来事。


伯爵はもちろんのこと、この場にいる誰も気づいた者はいなかった。


「閣下、ごめんなさぁい。少しお靴が濡れてしまったみたいです……怒ってますぅ?」


エレナも何事もなかったように、瞳をうっすら潤ませ、伯爵を上目遣いで見つめる。


「ハハハ、構わん。ワシはそれほど狭量ではないぞ。ほれリリアン、こちらに来い」


「やっぱり閣下って、度量が広くて素敵〜!」


エレナは再び伯爵の隣に座ると、彼の腕に絡みつき、無邪気にしなだれかかった。


(……これで任務完了ね。あとは上手く抜け出すだけだわ)


ここから先は、機を見極めることが肝心だ。


エレナはその瞬間を根気よく待ち続けた。


やがて、絶妙なタイミングがやってくる。


「あ、閣下、わたしも、お化粧を直してきますね! すぐに戻ってきますから、浮気しちゃダメですよぉ?」


ちょうど他の貴族を相手していた先輩嬢が、化粧室から戻ってきた姿が視界に入り、エレナは入れ替わるように立ち上がる。


これなら一人だけ席を外した印象にはならないだろう。


しばらく姿が見えなくても、おかしく思われないはずだ。


(もちろん、もう戻るつもりはないけれど)


エレナは笑顔で貴賓室から出ると、周囲に視線を走らせながら、ネックレスに触れて録音を止める。


人目を避けて忍び足で移動し、誰にも見られることなく、店裏の扉から姿を消した。


そのまま闇夜を駆ける。


深夜だというのに、店が建ち並ぶ方角からは賑やかな声がかすかに届いてきた。


だが、路地裏は静かだった。


エレナは周囲の気配を探りながら、追跡者がいないことを確認すると、あらかじめ見つけておいた空き家に勢いよく滑り込んだ。


「……ふぅ」


扉を閉めると、大きく息を吐く。


息を整えるよう何度か深呼吸をし、落ち着きを取り戻すと、今度はすぐさまドレスを脱ぎ出した。


(早く変装を解いてしまわないとね)


ウィッグを取り、メイクを落とし……次々に身につけている変装道具を外していく。


(今頃、リリアンが姿を消したと騒ぎになっているかしら? 伯爵も協定書が盗まれたことに気づいてるかもね)


けれど、いくら探したところで、絶対に見つからない。


リリアンという人物など、この世に存在しないのだから。


クラブに提出した経歴書は、すべて偽造である。


偽造書類の作成はアコナイトの得意分野だ。


(変装も解いたことだし、今の私はただの『エレナ』だもの。仮にこの後、伯爵に遭遇しても気づかれるはずがないわ)


リリアンとエレナでは、それほどまでに容姿が違っていた。


素顔に戻ったエレナは荷物をまとめると、ほっと息をつき、近くにあった椅子に腰かける。


貧相な椅子はギシッと音を立てた。


(……さてと、ここを出る前に、あれを確認しておかなきゃね)


エレナは太ももを締め付けるガーターの裏に差し込んだ証拠を取り出す。


折り畳まれた紙を開き、協定書の中身に目を通した。


「これは……」


やはり想像通りだった。


伯爵が口にしていた、組織と交わしたという条件が細々と記されている。


録音した音声と合わせれば、確実な証拠となるだろう。


(想像以上の成果ね。それに……なんといっても、ついに黒幕の正体が掴めたわ!)


エレナは、伯爵の名の隣に並ぶ印章を指でなぞった。


そこには――組織の象徴であろう『黒い鷲の紋章』が刻まれた印章が、力強く押されている。


「……黒鷹会(レイヴ)」


それが組織の名のようだった。


初めて聞く組織だが、これほど綿密に暗躍できるのだから脅威的な存在だ。


なによりバスティア王国に不和をもたらそうとしているのは明らかであり、警戒すべき対象だった。


(……とりあえず総長に報告ね)


エレナは証拠を胸元に収め、まとめた荷物を手にすると、空き家からそろりと外へ出る。


辺りを見回すが、追っては来ていないようだった。


わずかに肩の力を抜き、路地裏を歩き出す。


(素顔でいると、どうも気が緩んでしまうわ。任務終わりだから、特にね……)


本部に戻るまでが任務だ。


頭では分かっているものの、ずっと気を張っていた反動か、この時エレナは少しばかり油断が生じていた。


――それが思わぬ事態を招く。


薄闇に目を凝らしながら歩き、角を曲がった、次の瞬間。


ドンッと肩に衝撃が走った。


(えっ……?)


エレナは突然のことに目を見開く。


どうやら角の向こうから来た誰かとぶつかったらしい。


(全然気配に気づかなかったわ……)


いかに自分の警戒心が緩んでいたのかを突きつけられる。


なんとか足を踏ん張り、ふらついた体を立て直すと、改めてエレナは気を引き締めた。


怪しまれないよう、ただの通行人を装わねばならない。


(近くで飲んできた客を装えば、きっと不自然じゃないわ)


瞬時に頭の中で計算し、すぐに瞼を少し緩めて酒に酔ったような視線を作ると、おもむろに前を見た。


だが、目の前に立つ人物が目に入った瞬間、演技など吹っ飛び、エレナは凍りついた。


「……エレナ?」


「……ジーク、様……?」


そう、そこにいたのは――ジークヴァルトだったのだ。



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