↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凄腕スパイは甘い嘘を焼き上げる 〜秘密の菓子店を営んでいたら、冷酷公爵様が常連になりました〜  作者: 美並ナナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/32

第12話 止まらない鼓動

(ちょっと、一体どうなってるの……!?)


先ほどからエレナは、心の中でずっと絶叫を上げ続けていた。


なにしろ久しぶりに店を開けたところ、公爵がやって来て――なぜか今までと雰囲気が一変していたのだ。


眉に皺を刻んだ険しい表情は変わらない。


相変わらず、「冷酷無慈悲な公爵」と噂されるのも納得してしまう容貌だ。


だけど、彼の纏う気配が明らかに柔らかくなっている。


菓子を食べた時だけ緩んでいた表情が、今日はエレナへ向けられることもあった。


極めつけは、この甘く響く声。


鼓膜を優しくくすぐるような声音に、思わず腰が砕けそうになった。


(無理……! 異性への免疫がない『エレナ』の私には、手に負えないわ! どういう顔で接したらいいの!?)


怖い印象で忘れがちだが、公爵はかなり顔立ちが整っている。


その端正な顔を向けられ、吸い込まれそうな漆黒の瞳でまっすぐ見つめられているのだ。


おまけに声まで耳に心地よすぎるなんて、反則である。


その顔も、瞳も、声も。

それらは、いつだって菓子を前にした時だけ柔らかだった。


なのに、なぜ今日は、それが菓子よりもエレナに向けられているのだろう。


(しばらく会っていないうちに、公爵様に何かあったの……!?)


あの雨の日以降、エレナはほとんど店を営業できなかった。


諜報員としての仕事が忙しくなったからである。


やはりというべきか、密輸事件と外交官暗殺未遂事件の黒幕を探る任務が入ったのだ。


しかし、黒幕について分かっていることは、インメル王国の関係者である可能性が高いという一点のみ。


それ以外は大した情報もなく、手探り状態だった。


二つの事件に何か見落としがないかを洗い直したり、改めて関係者を調査したりしたものの収穫は皆無。


何の取っ掛かりも見つけられない。


任務が続く以上ゆっくりする時間もなく、ここ最近のエレナは、影の本部に詰めっきりだったのだ。


(公爵様だって、その件で忙しくしていたはずだけど……?)


任務を下す側の彼が暇なわけがない。


しかも今日は、夜に総長が公爵に呼び出されていたはずだ。


任務の変更がありそうだと総長は言っていた。


それもあって、今日は一旦エレナも休みを取ることができたのだ。


そうして久々に店を開けたら――公爵の様子がなんだかおかしい。


エレナは必死に動揺を隠しながらも、頭は疑問符でいっぱいだった。


(……今になって、名前を聞かれたことにも驚いたわ)


お互いに踏み込んだ会話をしないのが、二人の間で、なんとなく暗黙の了解になっていたのに。


たかが名前。されど名前。


今までの彼との会話を前提とするならば、それは一歩踏み込んだ質問だった。


(当然、私は公爵様の名前はもともと知っていたけれど……本人に名乗られると、不思議な気分だわ)


しかも『ジークヴァルト』ではなく、愛称の『ジーク』。


親しい者しか呼ばないであろう、その名を口にするのは、ひどく面映い心地だ。


それに、ほとんどの時間を『ベラドンナ』として過ごすエレナは、誰かから本名を呼ばれるのが非常に新鮮だった。


近所の常連客には呼ばれることもあるけれど、異性にこんなに甘い声で口にされるのは初めてだ。


(って、彼もただの常連客だってば……! それに動揺するのは、異性に慣れてないからよ!)


ふいに湧き上がる温かな感情に、エレナは慌てて首を振る。


林檎パイを口へ運ぶジークヴァルトから、思わず視線を逸らした。


だが、そんな時に限って、彼が再びエレナに話しかけてくる。


「前にエレナが言っていた通り、本当にここ数週間、店の休みが増えたんだな。……実は、その間何度もここまで来たんだ」


「そ、そうだったんですか。すみません、ご期待に沿えなかったみたいで」


「いや、それは構わない。もともと言われていたことでもあるし、しょうがないと思っている」


「……それほどお菓子を求めていらっしゃったんですか?」


「ああ、胃が痛い日が続いてな。――ここの菓子は胃薬よりも効き目がある」


そうさらりとこぼしたジークヴァルトの言葉を耳にして、エレナは思わず彼の横顔を見つめた。


何気なく口にした様子だったけれど、そこに彼の苦悩を感じた気がしたのだ。


今彼が抱えている案件の重さを、エレナは知っている。


陰謀の匂いがする、隣国が絡んだ非常に厄介な問題だ。


黒幕の正体が掴めない今、彼の心痛はいかほどだろうか。


(……血も涙もない公爵と言われている彼だけど、きっと国のために感情を抑えて踏ん張っているのだわ)


若くして国家安全保障局を率いる彼には、常人には分かり得ない苦労や重圧もあるに違いない。


あの総長へ指示する立場だと思えば、エレナにもその肩書きの重さがひしひしと伝わってくる。


それでも彼は冷酷な仮面を被り、感情を切り捨てて、命令を下しているのだろう。


同じく感情を殺して任務にあたるエレナも、その気持ちは痛いほど理解できた。


(ジーク様は、責任感の強い人なのね。私のお菓子で胃痛が和らぐなら、いくらでも焼いてあげたい……)


少しでも肩の荷を軽くしてあげられたらいいのに――そんな思いが募った末、ふいに彼を優しく抱きしめたい衝動に駆られた。


不意に見せられた弱さに、エレナは無性に甘く胸を締め付けられたのだ。


「……それでは、この店が休みの日でも食べられるよう、今日はいっぱい持って帰ってくださいね。よければ、追加で何か焼きましょうか?」


「ぜひお願いしたいところだが、今日はこの後予定がある。焼き上がるのを待つ余裕はなさそうだ」


「そうですか。……でもまぁ、林檎パイと林檎のパウンドケーキはたくさんありますから、大丈夫そうですね!」


「ああ、ありがとう。ところで、前から気になってたんだが、エレナは菓子作りをどこで覚えたんだ? ……あ、いや、秘密ならば答えなくてもいいんだが」


ジークヴァルトは言葉を発した後に、踏み込みすぎたと感じたのかもしれない。


それは他愛ない会話からやや逸脱する、私生活を問うような質問だった。


わずかに気まずそうに目を伏せ、ジークヴァルトは最後は少しばかり口ごもる。


(えっ、もしかして私に気を遣ってる……? あの暗殺命令さえ容赦なく下す、ジーク様が……?)


こんなふうに私生活で異性に気遣われる経験もエレナにはない。


どうにもくすぐったい気持ちがして、目が泳いでしまう。


任務中なら決して見せないような照れた表情で、エレナは少しばかり視線を彼の顔から外して口を開く。


「いえ、別に秘密ではないので大丈夫です。……えっと、実は私、五歳まで孤児院にいたんですけど、その時にシスターが教えてくれたんです」


これは嘘偽りのない本当の話だ。


諜報員『ベラドンナ』だと気づかれなければ問題ないだろうと、エレナは『エレナ』の話を打ち明けた。


(菓子屋の店主である今、この店でだけは、嘘をつきたくない)


普段、嘘に塗れた任務に身を投じているからこそ、これがエレナのけじめだった。


「……孤児院の、出身だったのか」


ジークヴァルトは思わぬ話が飛び出し、驚いたようだった。


彼にしては珍しく、分かりやすく目が丸くなっている。


「はい。そのシスターはご高齢だったんですけど、いつも優しくお菓子を作ってくれて。そのうち、私も自然と自分で作ってみたいなって思うようになったんです」


「なるほど。……年寄りは何かと若者に教えたがる傾向があるからな」 


「やけに言葉に実感がこもってる気がしますけど、もしかしてご経験談ですか?」


「……ああ。身近に口煩い爺がいるんだ」


誰かを思い出したのか、ジークヴァルトはやや渋面を浮かべる。


その口ぶりから、相当親しい間柄なのだろうと窺えた。


(ふふっ、ジーク様の私生活が垣間見れて新鮮だわ)


仕事や立場こそ明かさないものの、今日はジークヴァルトの方も、自分のことをよく話してくれる。


そんな空気に誘われるように、エレナも気が緩んだ。


総長に引き取られて以降の話こそ避けたが、当時を思い出し、懐かしげに目を細める。


「シスターには今もたまに作ったお菓子を持って行って味見してもらっていて。昔と変わらない笑顔で、美味しいって言ってくれるのが、すごく嬉しいなって思ってます」  


「そのシスターの教え方が良かったんだな」


「はい。でも、五歳までに教わったことなんて、本当に基礎だけですから、その後は独学です。美味しいお菓子を焼き上げるため、それなりに私も試行錯誤してるんですよ?」


「ああ、それは食べれば分かる。エレナは作っている時も楽しそうだ。……鼻歌を口ずさむくらいに」


「! あの、それはもう忘れてください……!」


「今日の厨房の状態はどうだ? 調理道具は積み上がってないか?」


「!! だ、だから、それも見なかったことにって言いましたよね……!?」


「ふっ」


耐えかねたジークヴァルトが小さく笑い声をこぼす。


たじたじにさせられたエレナは、顔を赤くして、思わず彼を軽く睨んでしまった。


恥ずかしさと居た堪れなさで、体が熱くてたまらない。


(もう、本当に今日のジーク様はおかしいわ!)


菓子よりエレナを見つめてきて、甘い声を出したり。


かと思えば、「胃が痛い」と珍しく弱音を吐き、踏み込んだ質問をしてきて。


それに今のやりとりは、まるでエレナを揶揄うような意地悪さが見え隠れしていた。


世に恐れられている冷酷無慈悲な公爵の姿など、もはやどこにも見当たらない。


今日のエレナはそんなジークヴァルトに、心をかき乱されてばかりだ。


心臓がずっとドキドキと脈打っている。


(こんな意外な一面、知りたくなかった)


ますます異性として意識してしまうではないかと、エレナは心の中で嘆いた。


異性に不慣れな自分を、これ以上困らせないでほしい。


そんな願いとは裏腹に、胸の鼓動は少しも収まってくれなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。