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第9話「冷徹な令嬢は、爪の先から崩れていく」

 サリ、サリ、サリ。

 静まり返った私室に、爪ヤスリの微かな音が響いている。

 西日が差し込む窓辺の椅子に腰掛け、私は自分の左手の爪を、親の仇でも討つかのような真剣さで磨いていた。


 王都(おうと)の社交界において、私、クラウディア・リントヴルム(りんとゔるむ)への評価は概ね一致している。

『氷の侯爵(こうしゃく)令嬢(れいじょう)』。

 政敵の前で微塵も表情を崩さず、どんな皮肉も完璧な礼法で撥ね退け、隙という隙を一切見せない女。それが私だ。父が望むままに、幼い頃から感情を殺す訓練を重ねてきた結果、見事に出来上がった傑作の仮面である。


 その氷の令嬢が今、何をしているか。

 明日のために、爪を磨いているのだ。

 それも、三回も粉を払い、微かな引っかかりすらないよう、角度を計算し尽くして。


 ……馬鹿みたいだ。

 自分で自分が滑稽でならない。

 明日、侯爵邸の玄関にやってくるのは、国賓でもなければ王族でもない。月にひとたび、差出人不明の厄介な紙札(かみふだ)を「当家のものではありません」と突き返すための、単なる受取拒否の儀式。

 その相手となる、平民の配達員だ。


 彼が私の爪先など見るはずがないのだ。

 玄関の石畳に立ち、白手袋の執事と業務的な言葉を交わすだけの数分間。私から彼までの距離は、どう甘く見積もっても三歩はある。その距離で、ヤスリをかけたばかりの爪の艶に気づく人間がいるとしたら、そいつは配達員ではなく鷹か何かだろう。


 分かっている。分かっているのに、止められない。

 サリ、サリ。

 少しだけ角度を変えて、小指の先を整える。


「……お嬢様。そのあたりにしておかないと、爪がなくなってしまいますよ」


 背後から、ひどく落ち着いた声が降ってきた。

 ビクッと肩が跳ねそうになるのを、長年の訓練でどうにか抑え込み、私はゆっくりと顔を上げた。

 鏡越しに、私付きの侍女頭であるアンナと目が合う。

 彼女は手元のトレイに明日の朝の支度用の小物を完璧な配置で並べながら、こちらをじっと見つめていた。その表情には一切の崩れがない。優秀な使用人の顔だ。

 だが、付き合いの長い私には痛いほど分かる。この女は今、内心で絶対におもしろがっている。


「……身だしなみを整えるのは、リントヴルム家の娘として当然の義務よ。何もおかしいことはないでしょう」

「ええ、左様でございますね。普段の三倍の時間をかけて小指の先を磨き上げるのも、侯爵家の重要な作法の一つなのでしょう」

「アンナ」

「はい」

「少し黙ってちょうだい」

「かしこまりました」


 アンナは恭しく一礼し、それ以上は何も言わずにクローゼットの方へ向かった。

 これ以上追及されないことに安堵しつつ、私は大きく息を吐き出す。

 彼女には絶対にバレている。私が誰の訪問を待って、こんなにもそわそわしているかなど、とうの昔にお見通しなのだ。それでも、決定的な言葉だけは口にせず、こうして絶妙な距離感で逃げ道を残してくれる。

 腹立たしいほど有能なメイドだった。


 手元のヤスリをベルベットの布の上に置き、私は自分の指先をじっと見つめた。

 ほんのり桜色に磨き上げられた爪。

 これを見せたい相手は、ただ一人しかいない。


 王都郵便局、配達員。レイ・ハルト。

 それが彼の名前だ。


 胸の奥で、その名前を呼ぶだけで、きつく締めていたコルセットが内側から弾け飛びそうになる。危ない。油断すると、顔がにやけそうになる。

 私は慌てて、心の中の巨大な鍋の蓋を、バァン! と力一杯押さえつけた。

 駄目だ。絶対に駄目だ。感情を出してはいけない。私は氷の令嬢なのだ。


 そもそも、先日の時点で私は取り返しのつかない失敗をしている。

 屋敷の番犬であるガリレオが、配達に来た彼に怪我を負わせてしまった一件だ。

 ……あの犬が急にあんな気まぐれを起こしたのも、元をたどれば、彼と少しでも言葉を交わす口実が欲しかった私の、どこか浅はかな願いが招いた結果なのかもしれない。いくらなんでも、本気の流血など望んでいなかったのに。


 彼の傷を見た瞬間、私は頭が真っ白になった。

 今すぐ駆け寄って手当てをしたかった。無事なのだと、彼自身の声で聞きたかった。

 しかし、侯爵令嬢が平民の配達員に泣きついて謝罪するなど、許されるはずもない。

 結果として、私が翌朝に捻り出した気遣いは、「温めた牛乳」という遠回しで意味不明な代物だった。


 ……あんなもの、伝わるわけがないじゃない!

 ベッドの上で身悶えしたい衝動を、背筋を伸ばすことで無理やり散らす。

 私が彼なら、「なんだこの冷たい女は。人が犬に噛まれたというのに、牛乳の温度の話をしているぞ。頭がおかしいのか」と間違いなく思う。

 やりすぎた。いくら建前を守るためとはいえ、不器用にも程がある。

 せめて、傷薬の一つでも渡せばよかったのだ。いや、それも不自然か。当家の責任として治療費を……いや、それだと彼をただの被害者として突き放すことになりかねない。


 ああもう、どうすればよかったの!

 内心で頭を抱えていると、ふと、あの時の彼の声が蘇ってきた。


『……業務上、そうしておいたほうが安全です』


 淡々とした、実務的な響き。

 彼は優秀だ。異様なまでに几帳面で、靴先には泥一つなく、鞄の手入れは完璧。どんな状況でも、手順を決して間違えない。

 もしかしたら、あの不器用な気遣いにも、彼なら気づいてくれたかもしれない。

 いや。気づかれては困るのだ。

 気づいてほしい。でも、気づかれたら終わりだ。


 平民である彼が、侯爵令嬢からの好意に気づいてしまったらどうなるか。

 彼にとって、それは名誉などではない。首元に突きつけられた刃そのものだ。受け入れれば不敬、拒絶しても不敬。どちらに転んでも、彼の平穏な日常は壊れてしまう。

 だから私は、この恋を「届かない手紙」の中に閉じ込めている。


 詩歌便。

 誰もが読めるけれど、誰にも意味が解けない、私的な暗号。

 月にひとたび、私は宛先をでたらめな詩に仕立てた札を郵便局へ流す。それは行き先を失い、やがて侯爵邸へと返却される。

 その返却の儀式の時だけが、私が彼と同じ空間に存在することを許される、唯一の合法的な口実なのだ。


 夜の帳が下り、屋敷が寝静まった頃。

 私はナイトガウンのまま、マホガニーの机に向かった。

 手元には、真新しい白紙の札とペン。


 明日のために、また新しい詩を書く。

 言えない言葉を、植物や天候の比喩に変換して、紙の上に逃がす。

『あなたに会いたい』とは書けないから、『雨上がりの舗石の輝きが』と書く。

『怪我は大丈夫ですか』とは聞けないから、『南風が運ぶ不意の痛みに』と書く。


 ペン先がカリカリと微かな音を立てる。

 この音だけが、私の本当の心臓の音だ。


 明日、彼はどんな顔をして玄関に立つのだろうか。

 先日の件で、呆れているだろうか。それとも、いつものように感情の読めない、完璧な配達員の顔をしているだろうか。


 ……分からない。

 なぜなら私は、彼の顔を見たことがないからだ。


 正確に言えば、最初の一度きり。彼が初めて侯爵邸の担当になった日以降、私は絶対に彼の顔を見ないようにしている。

 玄関での返却儀式中、私の視線は常に彼の手元、鞄の金具、肩の線、制服のボタンのあたりを彷徨っている。

 わざと見下しているわけではない。

 見られないのだ。


 顔を見てしまえば、私が詩の中で育てている「顔のない、完璧な宛先」が、現実の「レイ・ハルト」という一人の青年に完全に結びついてしまう。

 そうなれば、もう比喩では逃げられない。

 彼が私の恋の当事者なのだと、自分自身に突きつけられてしまう。

 それが恐ろしくて、私は三年間、ずっと視線を逸らし続けてきた。


「明日も……見ないわ」


 書き終えた札のインクを乾かしながら、私は誰にともなく呟いた。


「絶対に、あの人の顔だけは見ない。爪だけを見ていればいいのだわ」


 強がりのようなその独白は、静かな夜の空気に吸い込まれて消えた。

 明日になれば、また完璧な氷の令嬢として、玄関の石畳に立つ。

 感情を殺し、言葉を濾過し、ただ事務的に札を受け取る。

 それでいい。それが、私たちに許された唯一の接触なのだから。


 だけど。

 もしも明日、私が少しだけ指先の角度を変えたとき。

 彼がそれに気づいて、ほんの数秒だけ視線を落としてくれたなら。


 その時こそ、私の中の蓋は吹き飛び、祝杯のグラスが音を立てて割れてしまう気がした。

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