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第8話「気まぐれな助言と正しいミルク」

『先輩、笑ってますけど。その笑い方、見てるこっちが息苦しくなるくらい……ギリギリですよ』


 翌朝の仕分け台には、昨日医務室を飛び出していったミラの言葉が、薄い膜のようにまとわりついていた。

 ミラは俺と目を合わせようとしなかった。言い過ぎたと思っているのか、それとも別の確信を抱いているのか。俺のほうからも深入りはせず、ただ淡々と侯爵邸宛ての束を革鞄に収めていく。


 ギリギリ、という評価は正しくない。

 俺はただ、重要顧客の預かり物を守るという配達員としての実務を全うしただけだ。右足の包帯の厚みが靴に擦れて痛むが、歩行に支障はない。感情を論理の箱に詰め込み、錠を下ろす。俺は今日も、完璧な機械として門を叩く必要がある。


 三年間続いた安全な返却儀式は、犬の牙という物理的なバグによって破綻した。

 次にあの重い鉄門をくぐるとき、侯爵令嬢がどんな新たな形式を仕掛けてくるのか。俺は油紙で二重に包んだ例の紙札を鞄の奥底にしまい込みながら、警戒を解かずにリントヴルム侯爵邸へ向かった。


 門が開き、白手袋の執事が無言で現れる。

 そこまではいつも通りだった。だが、執事の背後、数歩離れた石畳の上に、クラウディアの姿があった。


 日差しを避けるような完璧な姿勢。感情を一切読み取らせない、氷のように冷徹な横顔。


「当家からの差し出しではありません。持ち帰りなさい」


 執事の定型句を背中で聞きながら、俺は一礼して踵を返そうとした。

 その瞬間だった。


「配達員」


 硬く、ひんやりとした声が背中を打った。

 俺の足が止まる。振り返ると、クラウディアの視線は俺の顔ではなく、制服の肩のあたりに向けられていた。


「当家の犬が、業務の妨げになったようですね」


 抑揚のない、事実確認だけのトーンだ。


「いいえ。こちらの不注意です。業務に支障はありません」


 俺が業務的な回答を返すと、彼女の華奢な指先がほんのわずかに震えたように見えた。視線は相変わらず落ちたまま、ポツリと言った。


「……温めた牛乳を、少し。そうすれば、あの犬も落ち着くはずです」


 それだけ言い残し、彼女は翻るドレスの裾と共に屋敷の奥へと消えていった。


 門が閉まる音を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。

 なんだ、今の指示は。侯爵令嬢の気まぐれか。それとも、遠回しな嫌がらせの類か。あれだけ獰猛な番犬が、牛乳ごときで大人しくなるとは到底思えない。


 だが、これは重要顧客からの業務上の助言だ。

 無視して再び噛まれれば、今度こそ特急便の配達に支障が出る。ならば、安全確保の「念のため」として試す価値はある。


 その日の夕方、配達路の終わり際。

 俺は鉄柵の隙間から、携帯用の小さな鍋で人肌に温めた牛乳を差し出した。

 ガリレオは喉の奥で低い唸り声を上げていたが、鼻先をひくつかせた後、警戒しながらもそれを平らげた。


「……案外、簡単なやつだな」


 空になった鍋を片付けながら、俺は少しだけ拍子抜けしていた。令嬢の言う通りだったらしい。これなら次からの配達も安全だ。

 そう判断したのは、完全に俺の落ち度だった。


 数日後。俺は侯爵邸の門前で異変に気づいた。

 いつもなら鉄柵に飛びかかってくるはずのガリレオの姿がない。不審に思いながら中を覗き込むと、奥の犬舎の陰から、重い足取りで這い出てくる毛玉が見えた。

 ガリレオは俺の気配に気づいて自力で門の近くまでやってきたものの、威嚇する元気もなく、鉄柵の向こうで苦しそうに腹を波打たせてへたり込んだ。


 一目で原因を悟った。

 自分の不用意さを呪う。犬の胃腸の構造など、少し考えれば分かることだった。侯爵令嬢がどんな意図で言ったにせよ、実際にそれを与えたのは俺だ。確認不足による完全な人災である。


 俺は鞄を背負い直し、即座に大通りを走った。

 まずは街の西側にある獣医の扉を叩く。


「先生、犬が牛の乳で腹を下した場合の処置は」

「ああ? そりゃお前、犬には合わない成分があるからな。水気をとらせて休ませろ。どうしても乳をやるなら、ヤギの乳か、犬用に薄めたやつにしろ」


 必要な事実だけを引き出し、今度は乳屋へ向かう。

 ヤギの乳を手に入れ、荷馬車の裏手で小さな鍋を出す。水筒の湯を少しずつ足し、自分の手首の内側に垂らして温度を測る。熱すぎず、冷たすぎない、完璧な人肌。


 侯爵邸へ戻ると、ガリレオはまだ鉄柵の近くで伏せっていた。

 俺は姿勢を低くし、新しく作ったミルクを鼻先に置く。ガリレオは薄く目を開け、俺の手の匂いを嗅いだ。そして、ゆっくりと舌を伸ばし始めた。


 飲み終えた後、ガリレオの様子が変わった。

 唸り声を上げる代わりに、濡れた鼻先を鉄柵の隙間から押し出し、俺の制服の袖にすりすりとこすりつけてきたのだ。


「……別に、たいしたことじゃありません」


 俺は誰に言うでもなく呟き、犬の頭を二、三度軽く撫でた。

 彼女の助言は、結果的には間違っていた。だが、あの冷たい声の奥に、怪我をした俺に対する不器用な気遣いが確かに存在していたことだけは事実だ。それが空回って犬が犠牲になっただけのこと。


 俺はそれを実務的な情報として脳内に分類し、犬の頭から手を離した。

 痛む足に体重を乗せ、再び完璧な配達員として姿勢を正す。


 明日はまた、返却日だ。

 今度は噛まれる心配はない。だが、あの氷のような令嬢が、この空回った気遣いの次にどんな顔をして現れるのか。それだけは、便覧を引いても載っていなかった。

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