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第7話「鉄の自制心と黒い番犬」

 王都郵便局の配達員には、絶対に守らなければならない三つの鉄則がある。


 一つ、預かった郵便物の内容に私情を挟まないこと。

 二つ、顧客の私生活に立ち入らないこと。

 三つ、いかなる事態においても郵便物を守り抜くこと。


 俺はこの三年間、一つ目と二つ目のルールを(内心においてのみ)粉々に粉砕し続けている。だからこそ、せめて三つ目だけは完璧にこなさなければならないという、強迫観念に近い矜持があった。


「……本日も、お預かりします」


 リントヴルム侯爵邸(こうしゃくてい)の重厚な鉄門の前。

 白い手袋をした初老の執事が、銀の盆に乗せた一枚の詩歌便(しかびん)を差し出してくる。宛先不明による受取拒否。三年間、月に一、二度の頻度で繰り返されてきた、あまりにも見慣れた儀式だ。


「承知いたしました。当局にて適切に処理いたします」


 俺は深く頭を下げ、盆から紙札を受け取る。

 その際、視線は紙の端の余白だけに固定し、中央の文字には一切焦点を合わせない。宛名も、綴られた詩の輪郭すらも見ない。俺は「読めない配達員」であり、それが何かを知らない顔を作らなければならない。


 息を詰めたまま、紙札を専用の油紙(あぶらがみ)で素早く、かつ丁寧に包み込む。そして誰の目にも触れないよう、鞄の最奥へと滑り込ませた。


 その時だった。

 ――グルルゥッ、と。

 地を這うような低い唸り声が、門の奥、手入れの行き届いた植え込みの影から響いた。


 視線を向けるより早く、黒い塊が弾丸のような速度で飛び出してくる。

 侯爵邸が飼っている巨大な猟犬だった。筋肉の塊のような胴体と、剥き出しの牙。それが一直線に、門の前に立つ俺の足元へと突進してくる。


「っ、ガリレオ! 待て!」


 奥から庭師の悲鳴のような制止が飛んだが、遅い。

 俺の脳内で、極度に圧縮された時間が引き伸ばされた。


 避けるか? いや、後ろは石造りの門柱だ。下手に飛び退けば、鞄が壁に激突する。鞄の中には、たった今受け取ったばかりの『見えない手紙』が入っている。もし衝撃で油紙が破れでもしたら? 万が一、地面に落ちて泥で汚れでもしたら?


 平民の俺が怪我をするのは構わない。だが、重要顧客の預かり物であるこれを汚損することだけは、絶対に許されない。


 俺は咄嗟に体を半回転させ、鞄を抱え込むようにして胸の高さまで持ち上げた。

 直後、無防備になった右の脛に、黒い獣の顎が遠慮なく食らいつく。


「――っ」


 ズブリ、と分厚い制服のズボンを貫通して、鋭い牙が肉に達する感覚。

 焼けるような痛みが脳天を突き抜けた。息が止まる。視界の端が白く明滅し、長靴の中に生温かい液体が流れ込んでいくのがわかった。

 だが、俺の意識の九割は、高く掲げた自分の右手に向かっていた。


 鞄は無事か。

 衝撃は伝わっていないか。


 手元の重みを確認し、鞄の底が完全に無傷であることを悟った瞬間、俺の口から安堵の短い息が漏れた。よかった。本当に、よかった。これで『あれ』は守られた。


「な、なんということを……! レイ殿、申し訳ございません! すぐに医者を!」


 執事が血相を変えて駆け寄り、庭師が必死の形相で犬の首輪を引き剥がそうとしている。優雅で静謐だった侯爵邸の門前は、一瞬にして恐慌状態に陥っていた。


 さて、ここからが配達員の腕の見せ所だ。

 ここで俺が痛みにのたうち回り、侯爵家の管理責任を問うような素振りを一ミリでも見せれば、この屋敷との関係に「問題」が生じる。担当を外されるかもしれない。そうなれば、もうあの詩歌便を運べなくなる。

 それだけは、絶対に避けなければならない。


 俺は右足の激痛を奥歯で噛み殺し、背筋を伸ばした。

 そして、日々の業務で顔に貼り付けてきた、最も無難で、最も事務的な「完璧な営業スマイル」を浮かめる。


「お気になさらず。当局の制服は丈夫に作られておりますので」


 噛みちぎられたズボンの裾から、じわじわと赤い染みが広がっているのを視界の端に収めながら、俺は一切の声の震えを許さずに言い切った。


「素晴らしい警戒心をお持ちの番犬ですね。私ども配達員が、不用意に門に近づきすぎたのが原因です。ご迷惑をおかけしました」


 執事が、幽霊でも見るかのような目で俺を見つめている。

 無理もない。ふくらはぎから血を流しながら、一切顔をしかめずに犬の血統を褒め称える男など、どう見ても異常者だ。だが、これでいい。ただの「仕事に忠実すぎる、少し頭のおかしい配達員」として処理されるなら、それが一番安全なのだ。


「それでは、本日の集荷はこれで完了とさせていただきます。失礼いたします」


 俺は完璧な角度で一礼した。向き直り、歩き出す。靴の中で血が滑り、一歩踏み出すたびに足首から膝にかけて激痛が走る。足を引きずりそうになるのを気力だけで強引に抑え込み、肩の水平を保ったまま門前を離れた。

 角を曲がり、侯爵邸からの視線が完全に遮断された瞬間。


「……っっっ、痛ええええ!!!」


 俺は壁に手をつき、声にならない絶知を上げた。

 なんだあの犬、本気で肉を抉りにきやがった。骨までいってないだろうな。


 だが、俺は壁に寄りかかって荒い息を吐きながらも、すぐに手元の鞄をそっと開けた。

 中身は覗かない。ただ指先だけを差し入れ、鞄の最奥にある油紙の感触だけを確かめる。

 折れ曲がっていない。無傷だ。

 それを確認した瞬間、ズキズキと脈打つ足の痛みなど、どうでもよくなった。


 守り切った。今日も俺は、証拠を誰にも渡さなかった。


  *


+++

【視点確認】

・人称:一人称

・視点主:レイ・ハルト

+++


 王都郵便局、薄暗い医務室。

 消毒液のツンとした匂いが鼻を突く中、俺は丸椅子に座り、ズボンの裾を捲り上げて血まみれの脛を拭いていた。幸いにも骨に異常はなく、牙が肉を裂いただけのようだ。……いや、十分重傷なのだが。


 傍らの椅子には、血が飛ばないよう細心の注意を払って鞄を置いている。

 扉がギィと音を立てて開き、見慣れた小柄なシルエットが顔を覗かせた。


「先輩、戻ってこないと思ったら……うわっ、なんですかその血!」


 後輩のミラだった。彼女の視線が、床に転がった血まみれのガーゼと、俺の右足に釘付けになっている。


「ああ、ミラか。大したことない。ちょっとした業務上の事故だ」

「事故ってレベルじゃないですよ! どこで何と戦ってきたんですか!?」

「リントヴルム邸の番犬。いやあ、見事な牙だった。さすが侯爵家、犬の躾も一級品だな」


 俺はヨードチンキを傷口に浴びせながら、なるべく軽いトーンで返した。痛みに一瞬だけ呼吸が止まったが、声には出さない。


 だが、ミラは笑っていなかった。

 ここ最近の彼女は、どこか俺に対してよそよそしかった。何か言いたげな、あるいは怯えるような視線を向けてくることが増え、俺が理由を尋ねようとすると器用に逸らされる。正直、心当たりが多すぎて絞り込めないのだが。


 だというのに、今の彼女は俺の顔と足元を交互に見比べ、口元をきつく結んでいる。

 そして、俺の左手に視線を落とした。


 俺の左手は、傷口の処置中であるにもかかわらず、隣の椅子に置いた鞄のフラップを無意識に押さえ込んでいた。血まみれの右手が絶対に鞄に触れないよう、極端に距離を取りながら。


「……先輩」


 ミラの声が、普段の明るさを完全に失って、ひどく冷たく響いた。

 何らかの理由で沈黙を守ろうとしていたはずの彼女が、決定的な一線を越える音がした。


「犬に噛まれたんですよね。自分の足からこんなに血が出てるのに」

「ああ」

「どうして、その鞄の中身ばっかり気にしてるんですか。さっきから、自分の傷よりそっちを庇うような動きばかりして……」


 俺の指が止まる。

 静まり返った医務室に、遠くの仕分け台から局員たちのざわめきだけが微かに聞こえていた。


「……特急便と同等の扱いを要する、重要顧客の預かり物だからだ。配達員としての、業務上の習性だな」


 俺は努めて平坦な声で言い、ようやく鞄から手を離した。


「嘘ですね」


 ミラは一歩も引かなかった。彼女は俺の顔を正面から見据え、黙っているつもりだったものを吐き出すように、痛ましげに眉をひそめた。


「先輩、笑ってますけど。その笑い方、見てるこっちが息苦しくなるくらい……ギリギリですよ」


 俺は口を閉ざした。

 これ以上何かを言えば、ひどく致命的な失言をしてしまいそうな気がしたからだ。ミラはそれ以上追及することなく、無言で新しい包帯の束を机の上に置き、逃げるように医務室を飛び出していった。


 扉が閉まる音を聞き届けた後、俺は深く、長く、息を吐き出した。


 三年間続いた、安全で完璧なすれ違い。

 触れることも、言葉を交わすこともない、美しい形式だけの防壁は、犬の牙というどうしようもなく物理的なバグによって、あっけなく食い破られてしまった。


 そして俺はまだ知らない。

 次にあの重い鉄門を叩くとき、番犬の主である彼女が、この流血の事故を口実にして『絶対に対面しなければならない』新たな罠を仕掛けてくることを。

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