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第6話「賭け屋の元締めの静かな期待」

 王都郵便局(おうとゆうびんきょく)、局長室。

 古ぼけた木製のブラインドの隙間から、夕暮れの控え室を見下ろすのが俺の日課だ。


 終業時刻を告げる鐘が鳴り終わると同時に、フロアの空気が一気に弛緩する。若手たちが制服の襟を緩め、今日あった面倒な宛先違いの愚痴をこぼし始め、ベテランたちは肩を回しながら帰り支度を急ぐ。どこにでもある、平和な職場の日常風景だ。

 だが、今日はその景色の中に、少しだけ異物が混ざっている。


 フロアの隅。新人のミラが、自分のデスクで石像のように固まっていた。

 視線の先には、帰り支度をするレイ・ハルトの背中がある。

 革鞄の留め具の音。筆記具をデスクの引き出しに並べる角度。椅子を机の下に押し込む速度。そのすべてが、一秒の狂いもない。

 あいつは周囲の雑音などまったく聞こえていないかのように、ただ静かに、そして異常なほど正確に退勤のルーティンをこなしている。

 ミラの奴、とうとう「見て」しまったらしい。


 うちの局員たちは、あの平民の若きエースと、氷のように冷たいと噂のリントヴルム侯爵令嬢のやり取りを、どこか甘ったるい「身分違いの悲恋」のエンターテインメントとして消費している。

 月に一、二度届けられる詩歌便(しかびん)の難解な比喩を勝手に解読し、控え室の黒板に『レイ・ハルトの陥落日(かんらくび)』なんてふざけたオッズまで書き込んでいる始末だ。

 しかし、事態は彼らが思っているほど生易しいものではない。


 レイ・ハルトは、恋に浮かれているのではない。「自分が令嬢から選ばれていると認めた瞬間、不敬罪で自分の首が飛ぶ」という極限の恐怖を、鋼鉄の論理と狂気的な自制心でねじ伏せているだけだ。

 その証拠が、あの異常な精度の業務日誌だ。侯爵邸という閉鎖空間で起きるあらゆる微細な変化を、感情を一切交えずに書き留めた観測データ。あれは、執着の隠れ蓑だ。

 その水面下の圧力に気づいてしまった新人は、今、猛烈な胃痛と戦っていることだろう。賢い子だ。あそこで誰かに言いふらさず、黙り込むことを選んだのなら、きっと良い配達員になれる。


 フロアからレイの姿が消え、ミラも重い足取りで帰路についたのを見届けてから、俺はブラインドから手を離した。

 革張りの局長椅子に深く腰を下ろし、すぐ横の壁に掛けられたコルクボードを見上げる。


 そこに無造作にピンで留められているのは、親指の先ほどの大きさに切り取られた、油紙(あぶらがみ)の切れ端の群れだ。

 他の局員が局長室に入ってきても、ただのメモの切れ端か何かにしか見えないだろう。意味を知らなければ、背景に溶け込むただのゴミだ。

 月に一度か二度、侯爵邸宛てのあの詩歌便が届くたび、レイは必ず油紙で札を二重に包み直す。その際、余分な角を小刀で切り落とす。俺はあいつが仕分け台を離れた後、作業台の隅に残されたその小さな余りを誰にも気付かれないように回収し、こうして壁に留め続けてきた。


 これまでに集まった三十八枚の切れ端。

 三年前のものから、つい先日の一枚まで。

 切り口の角度、ミリ単位のサイズ。すべてが、寸分違わず完全に一致している。


 人間の手作業というのは、必ずブレる。疲れている日、雨の日、気分が良い日、嫌なことがあった日。感情の揺れや体調の変化は、必ず指先の力加減に直結する。

 だが、レイが切り落としている油紙には、そのブレが一切ない。

 あいつは三年間、月に一、二度訪れるその瞬間に、ただの一度も「感情」を指先に逃がしていないのだ。


「俺はただの配達員だ。私情は挟まない。ただ規定通りに荷物を包むだけだ」


 そんな強迫観念めいた言い訳を自分に言い聞かせながら、刃物を握っているのだろう。

 恋文を雨から守るという最も情に溢れた行為を、最も無機質な機械の精度で行う。確信しているのに、動けない。相手が自分を選んでいるという証拠を毎月突きつけられながら、翌朝には「俺はただの配達員です」という顔を作って侯爵邸の門をくぐる。

 その自己破壊的なループに耐え続ける精神力は、すでに限界ギリギリまで膨れ上がっているはずだ。


 右足の膝の裏が、ピリッと痛んだ。

 湿気の多い夕暮れ時や、こういう「本気の執念」を間近で見たときに疼く古傷だ。

 三十年前。辺境(へんきょう)の雪深い山道で、猛吹雪の中で無理をして(けん)を切り、永遠に現場を引退することになった日の記憶。

 足を引きずる歩き方になってしまった俺には、痛いほどよくわかる。

 ああいう、自分への言い訳を一切許さず、手順と規則を完璧に守り抜こうとする馬鹿な男ほど、一度タガが外れたらどうなるか。

 感情だけで動く奴は、途中で諦めることができる。だが、理屈と使命感で自分を縛り付けている奴は、その根本の理屈がひっくり返った瞬間、一切のブレーキが利かなくなるのだ。


 引き出しを開け、小さく四つ折りにされた紙片を取り出す。

 表の控え室にある黒板の賭け屋に、俺がこっそり投じている大穴の予想札の控えだ。

 開かれた紙片に書かれた自分の字を、指の腹でなぞる。


『他家への婚礼当日/花嫁の物理的な奪取』


 局長室の誰もいない空間に向けて、俺は短く鼻で笑った。

 他の連中が見たら、局長はついに頭がおかしくなったと騒ぐだろう。黒板のオッズでは、「気づかないフリをやめる日」が一番人気で、次点が「クラウディア様を名前で呼ぶ日」だ。

 馬鹿らしい。あいつはそんな「青春の一ページ」みたいな生ぬるい決着をつける男じゃない。

 平民の配達員が、貴族の、しかも侯爵家の令嬢を、別の権力者の結婚式から奪い去る。そんな真似をすれば、物理的な意味でも社会的な意味でも命はない。

 だが、本物の配達員というのは、本当に「届けるべきもの」を見つけ、本気で追い詰められたとき、必ず自分の「仕事の道具」を使って、法も身分も飛び越えるのだ。


 今日、ミラが先輩局員から叩き込まれたであろう「特急便(とっきゅうびん)の絶対ルール」。

 いかなる貴族の行列を割ってでも最優先され、妨害すれば重罪になるという、この国で最も強い権利の盾。

 俺たち配達員が背負っているのは、ただの手紙じゃない。「国家の通信網」という巨大なインフラの末端としての矜持だ。

 レイはそのルールの重さを、そして恐ろしさを誰よりも理解している。だからこそ、決して軽々しく私情で使ったりはしない。

 だがもし、あいつが本当に守りたいもののために、その盾を「武器」として使うと決めたら。

 あの几帳面な男が、法と制度のすべてを味方につけて走り出したら、侯爵家の私兵だろうが、権力でゴリ押しする貴族だろうが、決して止められない。


 三年間、自分の心を押し殺し、油紙の角をミリ単位で揃え続けた男が暴走するなら、それくらい極端な爆発じゃないと辻褄が合わないのだ。

 だから俺は待っている。

 局長として止めるべき立場にいながら、一人の元配達員として、あいつが全てをかなぐり捨てて走り出す瞬間を見たいという、どうしようもない下心がある。


 手元の紙片をしまい、重い腰を上げて椅子から立ち上がる。

 窓の外は、すでに藍色の夜に沈みかけていた。

 問題は、その完璧な機械の足を止め、狂気の自制心を食い破る「きっかけ」がいつ訪れるかだ。


「……そろそろ、何かが噛みついてきてもいい頃合いだがな」


 誰に言うでもない独り言は、静かな部屋の空気に溶けて消えた。

 何かが起きる。それも、あいつの完璧な予定表を狂わせるような、予測不能な物理的な衝突が。

 俺は、明日出勤してくるであろう若きエースの姿を思い浮かべながら、局長室の明かりを消した。

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