第5話「新人は見てしまった」
「いいか、ミラ。よく覚えとけ」
入局してまだ間もない私の目の前に、先輩局員が恭しく一枚の封筒を突き出した。
装飾は一切ない。ただ真っ白で、分厚い紙質の封筒だ。表には赤インクで斜めに二本の線が引かれている。
「この赤い斜線の封筒――特急便を持った時だけは、俺たち配達員は無敵になる」
「無敵、ですか?」
「ああ。王都のメインストリートで貴族の馬車が列を作っていようが、大公殿下のパレードが行われていようが、関係ない。特急便を掲げた配達員は、いかなる行列を割ってでも最優先で道を通る権利がある。これを妨害した奴は、身分問わず重罪だ」
先輩の指先が、白い封筒の角をトントンと叩く。
普段は貴族の門前で愛想笑いを浮かべている配達員たちが、この封筒一つでそんな特権を得るという事実が、なんだかひどくアンバランスに思えた。
「すごいですね。魔法のパスポートみたいです」
「魔法ってのとは違うな。国が定めた『通信の絶対的保護』ってやつだ。ま、俺たち平の局員がこれを運ぶ機会なんて、一生に一度あるかないかだけどな。知識として頭に叩き込んどけ」
はい、と返事をして、私は配達鞄の紐を締め直した。
王都郵便局の朝礼後の空気は、独特だ。仕分け台の周りには忙しなさが残っているが、奥の控え室からはすでにコーヒーの匂いと、下世話な笑い声が漂ってきている。
私が控え室に顔を出すと、黒板の前に何人かの局員が群がっていた。
彼らの視線の先には、業務連絡ではなく、奇妙な表がチョークで書かれている。
『レイ・ハルトの陥落日』
「……先輩、あれって何ですか?」
「ああ、お前はまだ知らなかったか。うちの局の伝統行事だよ」
先輩は呆れたように笑いながら、黒板の下に置かれた小さな木樽を顎でしゃくった。
「レイ・ハルト。うちの局のエースで、一番真面目で、一番融通が利かない男。あいつが担当してるリントヴルム侯爵邸から、月に一、二回、妙な詩歌便が届くのは知ってるな?」
「はい。宛先まで詩仕立てになってる、あの厄介な……」
「そう。で、あの詩、どう読んでもレイへの恋文なんだよ。ただ相手は侯爵令嬢だろ? 平民への恋なんて、公にすれば不敬罪で両方の首が飛ぶ。だから局の連中はみんな『あれは隣国への軍事暗号だ』とか『将軍への皮肉だ』とか、わざと見当違いな解釈をでっち上げて大喜利して遊んでるわけ。でも、本当は全員気づいてる。それなのにレイ本人は、三年間『ただの業務です』みたいな顔して涼しく配達し続けてるんだ」
黒板には、『気づかないフリをやめる日』『クラウディア様を名前で呼ぶ日』『自爆して不敬罪で処刑される日』という、生々しい三つの項目と倍率が書かれていた。
「しょ、処刑って……いくらなんでも笑えないですよ」
「だからこそ賭けになるんだろ。あいつがいつ、あの能面を剥がして陥落するか。三年も続いてるから、樽の中身は今や結構な額になってるぜ」
「えっ、局内でそんな非公式な賭博してて怒られないんですか? ボンド局長とかに」
私が慌てて部屋の奥、局長室のガラス戸の方を見ると、先輩はニヤリと笑った。
「局長なら、毎朝一番に樽へ小銭を入れてるよ」
「ええ……」
「局長が賭けてる目は誰も知らないんだ。黒板のどの項目でもない、なんかとんでもない大穴にずっと張り続けてるらしい。まあ、局長なりのレイへのエールみたいなもんだろ」
私が呆気にとられていると、隣のテーブルから「ああっ、またダメだ!」というおじさん局員の悲鳴が上がった。
「聞いてくれよお前ら。西区の男爵が令嬢に出した詩歌便の返事、『月夜の薄雲は美しく、貴方様の歩みを優しく隠すでしょう』だってよ! これ絶対『暗い夜道に気をつけて帰れ(=二度と来るな)』って意味だよな!?」
「ドンマイ! 相手の詩のレベルが高すぎてお前の語彙力じゃ太刀打ちできてないんだよ!」
「次は『君の瞳は星のように』とか直球で送ってみろよ! 即座に燃やされるから!」
控え室はドッと湧いた。
貴族たちの高雅な遊びであるはずの詩歌便も、この局の控え室に持ち込まれれば、ただの公開エンターテインメントだ。中身が丸見えの郵便物を運ぶからこそ、配達員たちは他人の恋の駆け引きを勝手に解釈し、笑い、消費する。
その緩い空気の中で、三年も「何も気づいていない」ふりを貫いているレイ先輩は、確かに少し異常なのかもしれない。
その時、控え室のドアが開き、噂の張本人が入ってきた。
レイ・ハルト先輩。
シワ一つない制服に、手入れの行き届いた革靴。いつものように静かな足取りで部屋の隅の長机に向かい、小脇に抱えていた分厚い業務日誌をコトリと置いた。
「おはようございます、レイ先輩」
「おはよう、ミラ。仕分けはもう終わったか」
声のトーンは平坦で、愛想がないわけではないが、無駄もない。
レイ先輩は日誌を置いたまま、「少し手を洗ってくる」と言って洗面所へ向かった。
机の上に取り残された、黒い革張りの業務日誌。
配達員はみな、その日の配達ルートやトラブルを日誌に記録する義務がある。だが、レイ先輩の日誌は他の誰のものより分厚く、付箋がびっしりと貼られていた。
ほんの少しの、出来心だった。
エース配達員と呼ばれる完璧な人の日誌には、一体どんな模範的なことが書かれているのか。あるいは、何かミスをごまかした跡でもないか。
私は周りの局員たちがポエム談義で盛り上がっている隙に、こっそりとレイ先輩の日誌の表紙をめくった。
パラパラとページをめくる。
最初の数ページは普通だった。「東通りの馬車事故により五分遅延」「三番街のポストに破損あり、報告済み」。非常に簡潔で的確な業務記録だ。
だが。
『〇月×日 晴れ。南西の風。
リントヴルム侯爵邸配達。
執事の受け取り位置、門扉より三歩手前。
南庭ガゼボへの移動歩数、四十二歩。
提供された紅茶、ダージリン(推定温度八十度)。
令嬢の視線、当方の左手首付近に三秒固定。
発声なし。肩の揺れ、約二秒。
総滞在時間、十二分四十秒。異常なし』
私の指が、止まった。
瞬きをして、もう一度そのページを読み返す。
他の貴族邸の記録は二行で終わっているのに、リントヴルム侯爵邸の記録だけが、ページの端から端まで、異常な密度でびっしりと埋め尽くされていた。
『令嬢の視線、当方の左手首付近に三秒固定』
『肩の揺れ、約二秒』
……えっ。
何これ。
背中を、冷たいものがスッと撫で下ろしたような感覚。
これは、業務日誌じゃない。
秒単位の視線の動き? 肩の揺れ? 紅茶の推定温度?
そんなものを毎日、毎日、記録し続けているの? あの、涼しい顔をしたレイ先輩が?
局員たちは令嬢の恋心を面白がって、レイ先輩がいつボロを出すかと笑いながら樽に小銭を投げ入れている。
違う。全然違う。
この人は、全部見ている。相手の呼吸一つ、指先の動き一つまで全部計測して、その上で「異常なし」と書き捨てて、気づかないフリを完璧に演じ切っているのだ。
さっき先輩が言っていた「不敬罪で処刑」という言葉が、頭の中で重く響いた。
この文字の羅列から漂ってくるのは、生半可な恋心などではない。勘違いなら死ぬ、事実でも死ぬという絶望の中で、一歩でも踏み外さないように自分を縛り付けている、極限の自制心の痕跡だ。
「……ミラ?」
背後から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、洗面所から戻ってきたレイ先輩が、私の横に立っていた。
いつもの、少し疲れたような、清潔で無表情な顔。
「あ、レイ先輩!」
私は、自分でも驚くほど滑らかな動作で日誌をパタンと閉じ、机の上に綺麗に置き直した。指先が少し震えていたが、声のトーンを一段階高くして、満面の笑みを作る。
「いやー、先輩の日誌ってすごく分厚いから、どんなふうに整理してるのかなーって、表紙だけ拝見してました! 流石です、革の手入れも完璧ですね!」
「……そうか。あまり参考にはならないと思うが」
レイ先輩は小さく頷き、日誌を自分の鞄にしまった。
その顔には、隠し事を見られた焦りも、動揺も、何一つ浮かんでいない。
「それより、今日の午後は三区のルートに入るんだったな。あの辺りは西日がキツい。日差しで宛名を見落とさないように気をつけろ」
「は、はい! ありがとうございます!」
的確なアドバイスを残して、レイ先輩は控え室を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐き出した。
言えない。
こんなの、先輩局員たちに言えるわけがない。
あの樽に小銭を入れている無邪気な大人たちに、「レイ先輩はもう限界ギリギリの狂気の中で仕事してますよ」なんて告げ口したら、この局の平和な空気が一瞬で凍りついてしまう。
「……見なかったことにしよう」
私は誰にも聞こえない声で呟き、自分の席に戻った。
あの白い特急便の封筒がどれほど強い権力を持とうと、今ここで私が手に入れた「秘密」の重さには敵わない。
王都郵便局の片隅で、私はただ一人、静かに観測者になることを決めた。




