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第4話「生存戦略としての完璧な誤読」

 胃の痛む三度目の茶会から帰還し、自室の鍵を閉めた瞬間、俺は配達鞄を放り投げて床に突っ伏した。


 三年間。

 この三年間で、事態は完全に最悪のループへと定着してしまっていた。


 「宛先不明の詩歌便を届ける」→「白手袋の執事に受領を拒否される」。

 この狂った定型行事は、三年前から月に一度か二度のペースで粛々と繰り返されてきた。そして最近になって、そこに「お詫びという名目で、なぜか侯爵令嬢と南庭ガゼボでお茶を飲む」という工程まで追加され、今日で通算三度目のお茶会を終えたところだ。


 侯爵令嬢クラウディア・リントヴルム(りんとゔるむ)は、相変わらず俺の顔を絶対に見ない。

 そして相変わらず、俺が間を埋めるために繰り出す業務報告トーンのしょうもない小話を聞いては、ドレスのレースの肩を震わせて笑いを堪えている。

 俺はそれを「風が強いですね」と真顔でやり過ごす。侍女頭のアンナは、能面のような顔で茶器に紅茶を注ぎ続ける。


 俺の「気づかないフリ」の技術も、飛躍的に向上した。

 もう反射的に言い訳が口から出る。視界の隅で彼女が俺の革鞄の傷を見つめていても、「手入れが足りず申し訳ありません」と自動音声のように返せる。


 だが、限界だった。

 何が限界かといえば、紙札の裏に書かれた詩のほうである。


 深夜。

 俺は窓の隙間を厚手の手ぬぐいで完全に塞ぎ、小さな蝋燭に火を灯した。

 誰の目にも触れない密室を作ってから、床板の一枚を外し、その下の隙間に指を差し込んで木箱を引っ張り出す。


 箱の中には、油紙で二重に厳重に包まれた束が入っている。

 三年前から溜まり続けた、三十八通の宛先不明の詩歌便たちだ。

 俺は息を詰め、その油紙をそっと解く。数枚ごとに差出家を示す色の違う紐が通された厚紙を、一枚ずつ、角を揃えて日付順に並べていく。指先が少しでも汚れていないか、無意識に何度もズボンで拭った。


 これが、俺の毎晩の儀式だ。

 三年分の彼女の言葉を、誰にも知られずに読み返し、そしてまた完璧に元の順番どおりに戻す。


 最初は、王都の風景や季節の移ろい、あるいはどこかの英雄譚をなぞったような、美しいだけの比喩だった。

 だから、王都郵便局の局員たちは「この比喩はあの将軍への皮肉だ」「いや、新進の芸術家への賛辞だ」と勝手な解釈で盛り上がり、黒板にオッズまで書いて楽しむことができたのだ。


 しかし、今日突き返されて持ち帰ったばかりの、三十九通目は違う。

 油紙を開き、真新しい紙札を裏返す。蝋燭の炎が、その美しい筆致を照らし出した。


『雨を弾く黒い革の匂い。

 定刻に鳴る、門扉の前で必ず三歩下がる靴の音。

 ただ、それだけを待っている。』


 俺は、息を止めた。


 局員たちは今朝もこれを読んで「軍靴の音だ」「隣国との国境警備隊への憂いだ」と好き勝手言っていたが、全部違う。

 黒い革は俺の配達鞄だ。そして「門扉の前で必ず三歩下がる」のは、巨大な侯爵邸の威圧感に対して、俺が自分に課している『完璧な実務の距離』を取るための、誰にも言っていない俺だけの癖だ。


 逃げ道がない。

 どう言い訳を用意しても、三段論法を回しても、もう誤魔化しようがない。

 侯爵邸に毎日定刻に出入りし、黒い革鞄を提げ、門扉の前で必ず三歩下がる人間など、王都中を探しても一人しかいない。


 これは、俺だ。

 他の誰でもない、俺宛の言葉だ。


 三十九通目にして、俺の中で最後の一線が完全に決壊した。

 侯爵令嬢クラウディアは、平民の配達員である俺に、明確な好意を向けている。


 その事実を頭の芯で理解した瞬間、俺の全身から一気に冷や汗が噴き出した。

 嬉しい? 報われた?

 馬鹿を言うな。そんな甘い感情は、一ミリも湧いてこない。


 あるのは、圧倒的な「死の恐怖」だけだ。


 想像してみろ。

 平民の配達員が、「侯爵令嬢様が俺の靴の音を待っているらしいです! これ、俺への恋文ですよね!」と名乗り出た瞬間のことを。

 もしそれが俺の勘違いだったら、侯爵家に対する取り返しのつかない不敬罪だ。令嬢の顔に泥を塗った身の程知らずの妄想狂として、翌日には俺の首は王都の広場に転がるだろう。

 では、万が一勘違いではなく、本当に彼女が俺を好いていたとしたら?

 もっと最悪だ。

 「侯爵令嬢をたぶらかした大罪」で、俺の首が飛ぶだけではない。由緒正しきリントヴルム侯爵家の長女に「不実な女」という烙印が押され、彼女の人生まで完全に破滅する。


 どっちに転んでも、俺は死ぬのだ。

 気づいたと認めることは、俺にとって処刑台への片道切符でしかない。


「……気のせいだ」


 俺は震える手で、三十九枚目の紙札を油紙で包み直した。

 角の折れ線が、一ミリもズレないように。彼女の言葉に、俺の指紋すら残さないように。


「これは、俺じゃない。ただの偶然だ。類似だ。自意識過剰だ」


 呪文のように呟きながら、俺は三十九通の紙札を木箱の中にきっちりと収め、蓋を閉めた。

 この秘密は、俺が墓場まで持っていく。

 誰にも言わない。態度にも出さない。

 明日からも、俺はただの「仕事熱心で、貴族の遊びには疎い、真面目な配達員」であり続ける。


 だが、この行き場のない感情と恐怖を、どう処理すればいい?

 俺は深呼吸を一つすると、机に向かい、王都郵便局指定の業務日誌を開いた。

 ペンを握り、インクをつけ、今日のお茶会の記憶を文字に変換する。


『〇月×日 晴れ。南西の風。

 リントヴルム侯爵邸配達。

 執事の受け取り位置、門扉より三歩手前。

 南庭ガゼボへの移動歩数、四十二歩。

 提供された紅茶、ダージリン(推定温度八十度)。

 令嬢の視線、当方の左手首付近に三秒固定。

 発声なし。肩の揺れ、約二秒。

 総滞在時間、十二分四十秒。異常なし』


 感情は書かない。ただ、観測した事実だけを異常な粒度で記録する。

 これが、俺がこの狂気の中で自分を保つための、唯一の防衛線だ。


 俺はペンを置き、分厚い業務日誌を閉じた。

 ただの有能な配達員を装うためのこの記録が、外から見れば「狂人のストーカー手帳」にしか見えないことなど、この時の俺はまだ、微塵も気づいていなかった。

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