第3話「完璧な茶会と、笑う肩先」
王都の空は今日も青く、南庭のガゼボを吹き抜ける風は心地よい。
白い屋根の下、テーブルには繊細な意匠の焼き菓子が並び、黄金色の紅茶が静かに湯気を立てている。
完璧な昼下がりだ。俺が場違いな平民の配達員でさえなければ。
「……どうぞ」
音もなく背後に立った侍女頭——確か、アンナと呼ばれていたはずだ——が、俺の前にティーカップを置いた。
陶器がぶつかる音は一切しない。カップの取っ手は、俺が最も自然に右手を伸ばせる角度から一ミリの狂いもなく配置されている。
怖い。ただお茶を淹れるだけの動作に、熟練の暗殺者のような凄みがある。
「いただきます」
俺は居住まいを正し、可能な限り無難な声で答えた。
視線の先には、侯爵令嬢クラウディア・リントヴルムが座っている。
今日も今日とて、氷のように美しい鉄面皮だ。
首元まである豪奢なドレスに身を包み、手には薄い絹の手袋。肌の露出は一切なく、感情の起伏も見えない。
ただ、彼女の視線は俺の顔ではなく、俺の制服の第二ボタンのあたりをじっと見つめている。
なぜ俺は、こんなところに座っているのか。
理由は簡単だ。「宛先不明の悪戯のせいで、配達員に何度も無駄足を運ばせていることへの、侯爵家からのお詫び」である。
先日の玄関先でのやり取りのあと、執事が告げた「後日改めてご案内をお送りします」という言葉。あれは貴族特有の体裁を整えるだけの社交辞令だとばかり思っていた。
だが、数日後に本当に局宛てに招待状が届き、断り切れないまま足を運んだのが最初。
そして、まさかの——これが三度目だ。
(俺の建前:侯爵家はなんて寛大で、形式を重んじる素晴らしい家門なんだろう)
(俺の本音:早く帰りたい帰りたい帰りたい不敬罪で殺される前に帰らせてくれ)
沈黙が痛い。
何か喋らなければならない。あくまで「ただの優秀な配達員」として、無難で、面白みがなく、貴族の機嫌を損ねない話題を。
「……そういえば」
俺はカップをソーサーに戻し、声を絞り出した。
「先日、少し困ったことがありまして」
クラウディアの視線が、第二ボタンから襟元へ少しだけ上がった。先を促しているらしい。
「担当区の西通りに、大きな呼び鈴をつける家ができたんです。配達の際はそれを鳴らす決まりになったのですが」
俺は淡々と事実だけを並べる。完全なる業務報告のトーンだ。
「その音が、近隣の屋敷で庭師を呼ぶ合図とまったく同じ音程だったらしく。俺が鈴を鳴らすたびに、隣の家の庭師が三人、箒を持って慌てて走ってくるんです。三日連続で」
「……」
「四日目には、庭師の方から『頼むからノックにしてくれ』と泣きつかれました。業務上、指定された手順を変えるわけにはいかないのですが、そのお宅だけは特例として門柱を叩くことになりました」
話し終えて、俺はお茶を飲んだ。
どうだ。見事なまでにオチも教訓もない、平坦な労働者の小話だろう。
俺はクラウディアの反応を待った。
彼女の顔は、相変わらず冷ややかな彫刻のように固まっている。美しい唇は真一文字に結ばれ、眉一つ動いていない。
完璧な無表情。氷の令嬢の面目躍如だ。
——ただ、ドレスの肩口のレースが、小刻みに震えていた。
ぷるぷると。
まるで、必死に笑いをこらえている子供のように。
「…………」
見ない。俺は何も見ていない。
あの肩の震えは、南庭を吹き抜ける風のせいだ。あるいは、そういう仕様のドレスなのだ。最新の王都の流行りに違いない。気のせいだ。気のせいにしておかないと俺が死ぬ。
(俺の本音:笑ってる! 絶対に笑ってる! なんで顔はあんなに真顔なのに、肩だけピンポイントで揺れるんだよ! 不器用すぎるだろ!)
「……それは」
不意に、クラウディアが口を開いた。声はひどく澄んでいて、冷徹な響きを保っている。
「庭師たちも、災難でしたね」
「ええ。念のため、お互いにとって一番安全な手順で合意しました」
俺は顔色一つ変えずに答えた。
肩の震えは、まだうっすらと続いている。
俺はアンナの方をちらりと見た。
完璧な侍女頭は、微動だにせず少し離れた位置に立っている。その顔には一切の感情が浮かんでいない。この狂った空間を、立ち位置と茶器の角度だけで完全に支配・維持している。
怖い。
この空間で、狂っていないのは俺だけだ。
いや、俺もとっくに狂い始めているのかもしれない。
これだけわかりやすいサインを見せられて、それでも「ただの業務」だと言い聞かせているのだから。
帰ろう。このお茶会が終わったら、また誰にも見られない自室の暗がりに戻り、今日という日を「何もなかった日」として厳重に封じ込めるのだ。
それが、俺がここで生き残るための唯一の防衛線なのだから。
だが、この「お詫び」という名の終わらない茶会は、いったいあと何回続くのだろうか。
胃の奥が、最高級の紅茶の香りに負けないくらい、キリキリと痛んだ。




