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第2話「氷の令嬢と0.5秒のエラー」

 王都の一等地、一番見晴らしのいい丘の上。

 ここに建つ白亜(はくあ)の豪邸が、俺の担当区における最大の難所、リントヴルム侯爵邸だ。


 聞いてほしい。ここの門構え、マジで平民を威圧するためだけに作られている。

 錬鉄製の門扉に刻まれた竜の紋章。庭師が定規で測ったとしか思えないほど完璧に刈り込まれた前庭。そして、靴の裏の泥を落とさないと足を踏み入れることすらためらわれる大理石のエントランス。

 俺は革靴の裏を門前のマットで三回、いや念のため五回こすってから、重厚な真鍮の呼び鈴を鳴らした。


 すぐに重い扉が内側から開く。

 現れたのは、糊のきいたシャツに黒いベスト、そして一点のシミもない白手袋をはめた初老の執事だ。

 彼の表情筋は、おそらく俺が三年間担当している間、一度も動いたことがない。今日も完璧な無表情で、俺の顔ではなく、俺の胸元の郵便局のバッジを見据えていた。


 さあ、いつもの業務の始まりだ。


「王都郵便局です。こちらの詩歌便ですが、宛先が局の地名録に存在しない架空のものとなっており、配達不能でした。つきましては、差出人として記載されているこちらの侯爵邸へ返却に上がりました」

 俺は極めて事務的なトーンで言い、鞄から油紙に包まれた紙札を取り出した。油紙を外し、両手で恭しく執事に向けて差し出す。


 執事は白手袋のまま、その札の端を指先でつまむようにして受け取った。

 一瞥する。時間にして約二秒。

「ご足労痛み入ります、配達員。しかしながら、当家にはそのような怪文書を出した記録はございません。どこかの誰かが当家の名を騙った悪戯でしょう。お持ち帰りください」


 はい、出ました。

「本物の差出人は当家ではない」という受取拒否の定型句。

 これで三十八回目だ。三十八回連続で、でたらめな宛先が書かれた同じ筆跡の郵便物が「うちのじゃないです」と突き返されている。

 普通なら「じゃあ誰が毎月侯爵家の名前騙って出してんだよ、衛兵呼べよ」となるところだが、ここは貴族社会。俺たち平民には一生理解できない、極めて面倒くさい形式が支配する世界だ。


「承知いたしました。では、局の規定に従い、受取人・差出人ともに不明の保留便として処理させていただきます」

 俺も定型句を返す。もちろん局の保留棚に放置なんかしない。するわけがない。だが、表向きはそういうことになっている。


 執事が札を俺に返そうと手を伸ばした、まさにその時。


「待ちなさい」


 背後の廊下から、透き通るような声が響いた。

 執事の肩がわずかに揺れ、俺は心臓が口から飛び出しそうになった。

 声の主がゆっくりとエントランスに姿を現す。


(おいおいおい、嘘だろ)


 足音が聞こえないほど静かな歩み。

 日差しを避けるために長袖のドレスを纏い、肌の露出を極限まで抑えた高貴な佇まい。

 感情の起伏を一切感じさせない、冷ややかに整った顔立ち。

 リントヴルム侯爵家長女、クラウディア・リントヴルム令嬢ご本人だ。


 俺はとっさに視線を下げ、彼女のつま先から三十センチ手前の大理石の床を凝視した。

 目を合わせるな。絶対に顔を見るな。

 相手は雲の上の侯爵令嬢だ。平民の配達員が不用意に目を合わせれば、不敬で物理的に首が飛ぶ。

 俺は命が惜しい。だから、視界の端に映る彼女の青いドレスの裾だけを見て、息を殺した。


「私が確認します」

 クラウディア様は執事の手から紙札を受け取った。

 静寂が落ちる。

 彼女の視線が、紙札の裏に書かれた詩に落ちているのが、空気の重さでわかる。


(いや、あなたが書いたんでしょうが)


 というツッコミは、脳内の最も深い金庫に厳重に封印した。

 俺はただの郵便ポスト。感情を持たないただの運搬装置。そう自己暗示をかける。

 数秒の沈黙の後、氷のような声が上から降ってきた。


「お手数をおかけしました、配達員。ですが、やはりこれは当家のものではありません。お引き取りを」

「……かしこまりました」

 俺は両手を差し出し、彼女からの返却を待つ。


 視界の端で、薄い絹の手袋に包まれた指先が紙札を差し出してくるのが見えた。

 俺は丁寧に、札の端を両手で受け取る。

 彼女の手から札が離れる。

 いや、離れ、ない?


 紙札を受け取ろうとした瞬間、ほんのわずかな違和感があった。

 絹の手袋越しの指先が、紙札の端をきゅっと掴んだまま、離れるのが遅れたのだ。

 時間にして、およそ〇・五秒。

 引く力はほんのわずかだったが、確かに紙が俺と彼女の間で一瞬だけピンと張った。


(なんだ、今の)


 俺が戸惑って力を抜こうとした瞬間、彼女の指がパッと離れた。

 まるで、触れてはいけないものに触れてしまったかのように。

 俺は反射的に紙札を引き寄せ、一歩下がる。


「……失礼いたしました」

 俺は深く頭を下げ、顔を見ないまま足早に背を向けようとした。


 その時だ。

 侯爵邸の奥、薄暗い廊下のほうから、微かな衣擦れの音が聞こえた。

 気のせいかと思ったが、執事が一瞬だけそちらへ視線をやり、わずかに顎を引いたのが見えた。まるで、姿の見えない誰かからの指示を受け取ったかのように。


「お待ちください」

 再び前を向いた執事の声が、俺の背中を打つ。足を止めると、彼は相変わらずの無表情で告げた。


「度重なるご足労をおかけしております。本来であれば局の窓口で破棄すれば済むものを、毎度毎度、宛先不明の悪戯のために当家まで足を運ばせてしまっている。侯爵家の体面として、配達員殿にこれ以上の負担を強いるわけにはいきません」


(は?)


「当家の侍女頭からの申し伝えです。後日、配達員殿への『度重なるご足労へのお詫び』として、当家にてささやかなお茶の席を設けさせていただく。どうか、このまま帰す非礼をお許しいただきたい」


 思考が停止した。

 平民の配達員を、そんな侯爵家側からの「お詫び」なんて名目で屋敷に呼び出す?

 ありえない。そんなバグみたいなイベント、郵便局の便覧のどこにも載っていない。だいたい、貴族が平民に頭を下げる口実を作るなど異常すぎる。

「お気遣いなく。宛先不明便の返却確認は通常業務の範囲内です。特別な配慮は一切不要です」

 俺は必死で防衛線を張る。これ以上、この屋敷に深く関わったら本当に命が危ない。


「いえ、これは侯爵家からの正式な申し出です。後日、改めてご案内をお送りしますので、どうかご放念なく」

 執事の言葉は、提案の形をとった業務命令だった。背後にいるであろう「侍女頭」の周到な包囲網を感じる。

 逃げ道はない。


「……承知、いたしました」

 俺はもう一度深く一礼し、今度こそ逃げるように大理石の階段を駆け下りた。


 *


 侯爵邸の敷地を出て、二つ目の角を曲がったところにある人気のない路地裏。

 俺は崩れ落ちるように石段に腰を下ろした。


 肺の底から、絞り出すような息が漏れる。

 冷や汗でシャツが背中に張り付いている。

 なんだあれは。何が起きた。


 侯爵令嬢本人の登場。

 からの、侯爵家側からのお詫びという異常なお茶会フラグ。

 心臓が警鐘を鳴らしてやまない。これは罠だ。侍女頭まで一枚噛んで、平民をからかって遊ぶ貴族特有の悪趣味なゲームに違いない。


 そして、あの指先の遅れ。

 紙札を渡す時、彼女の指先がほんの少しだけ、俺から離れるのをためらったようなあの感覚。


(気のせいだ)


 俺は即座に論理的推論を開始した。

 相手は侯爵令嬢。手には極めて上質な薄い絹の手袋がはめられていた。

 その絹の細かな繊維が紙の表面のざらつきに引っかかり、物理的な摩擦係数が増大した結果、一時的な接着状態が発生した。それだけのことだ。

 未練? 名残惜しさ?

 馬鹿を言うな。そんなもの、三文小説の読みすぎだ。平民の俺に対してそんな感情を抱く理由が、論理的に一つも存在しない。


 そうだ。これはただの物理現象だ。

 もし俺が、「あの指先の遅れは、俺への特別な感情の表れかもしれない」などと早とちりして、次の配達の時に「お茶会、楽しみにしてますよ」なんて声をかけようものなら。


『分をわきまえろ、下賤な者が』

 冷たい一瞥とともに、屋敷の裏庭で犬の餌にされる未来しか見えない。


「落ち着け。俺はただの配達員だ。業務を完遂することだけを考えろ」

 独り言をつぶやきながら、俺は鞄から先ほどの紙札を取り出した。


 表の詩なんて絶対に見ない。読めばまた、余計な妄想が膨らむからだ。

 俺の視線は、紙札の「角」にだけ注がれていた。

 彼女が少しだけ強くつまんだせいで、札の右上の角がほんのわずかに折れ曲がっている。


「……あとで困りますから」

 誰に言い訳しているのかわからない言葉を口にしながら、俺は指の腹でその折れ目を丁寧に、何度も何度もこすって平らにした。

 力加減を間違えれば紙の繊維が傷つく。俺は配達で培った指先の感覚を総動員して、その小さな損傷を修復した。


 完璧だ。どこから見ても、ただの綺麗な紙札に戻った。

 俺は修復を終えた札を油紙で二重に包み直し、雨水が一滴も入らないように口をきっちりと折り畳んでから、鞄の奥底の一番安全なポケットにしまい込んだ。


 立ち上がり、制服のシワを伸ばす。

 指先の感覚も、異常なお詫びのお茶会も、すべて「業務上のイレギュラー」という引き出しに放り込み、厳重に鍵をかけた。


 俺は気づかない。

 何も見ていないし、何も感じていない。

 今日も完璧な見ないフリを貫き通した自分を褒めてやりたい気分だ。


 ただ、鞄の奥底にしまった油紙の包みが、まるでそこだけ熱を持っているかのように、俺の腰のあたりで静かに主張し続けているのだけが、ひどく疎ましかった。

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