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第10話「視線の偏りと共犯者」

 だけど。

 もしも明日、私が少しだけ指先の角度を変えたとき。

 彼がそれに気づいて、ほんの数秒だけ視線を落としてくれたなら。


 その時こそ、私の中の蓋は吹き飛び、祝杯のグラスが音を立てて割れてしまう気がした。


 机の上でインクが乾ききった詩歌便(しいかびん)の札を、そっと裏返す。

 文字の掠れはない。比喩の破綻もない。明日の朝、この札を便覧係(びんらんがかり)が読めば、また「リントヴルムの令嬢が解読不能な恋の詩を書いた」と頭を抱えるはずだ。

 でも、本当は違う。

 誰も解けないと社交界で持て囃されている私の詩の正体は、高尚な暗号でもなんでもない。


 ただの、「視線の偏り」だ。


 彼が初めてこの侯爵邸(こうしゃくてい)の担当になった日以降、私は絶対に彼の顔を見ないようにしている。

 自分で自分に課した「顔を見ない掟」。

 顔を見てしまえば、私が詩の中で育てている「顔のない、完璧な宛先」が、現実の「レイ・ハルト」という青年に結びついてしまう。そうなれば、もう詩という安全な仮面を被ってはいられなくなる。

 だから私は、玄関での返却儀式の最中も、お茶会の席でも、決して彼の瞳を見ない。

 冷徹で高貴な侯爵令嬢としての矜持を保つため、常に視線をやや下方に固定している。


 その結果、どうなったか。

 私の視界には、彼の顔以外のすべてが、ひどく異常な解像度で焼き付くことになった。


 手綱を握り続けたことでできた、分厚い革手袋の親指の擦り切れ。

 雨の日にだけ微かに漂う、湿ったウールの制服の匂い。

 配達鞄の重さを庇うように、ほんの少しだけ右に傾く肩の線。

 石畳を叩く、正確で規則正しい革靴の音と、わずかに遅れる右足の歩幅。


 私の目は、彼の首から下を、まるで精密な絵画を鑑定するかのように隅々まで舐め回している。令嬢の作法としては最低の部類だ。

 けれど、だからこそ私の詩は書ける。

 私が札に綴る「紺色の空」も「迷子の星」も「雨を待つ鳥」も、全部彼を分解したパーツの暗喩にすぎない。

 私は高雅な恋の詩を紡いでいるのではない。ただの重苦しい執着を、誰にも見えないように紙へ叩きつけているだけなのだ。


 そして、この屋敷の中でたった一人だけ、私のその異常な視線の偏りに気づいている人間がいる。


「お嬢様。そろそろお休みの時間です」


 唐突に背後からかけられた声に、私はびくりと肩を跳ねさせた。

 吹き飛んだのは蓋ではなく私の寿命の方だ。


「あ、アンナ……。ノックくらいしてちょうだい」

「三回いたしました。お返事がないので、また何処かの遠い空へと思考を飛ばしていらっしゃるのだろうと」


 私の最側近である侍女頭は、少しも悪びれずに部屋へ入ってくる。

 彼女の手には、就寝前のカモミールティーが乗った銀盆(ぎんぼん)があった。

 ベッドサイドの小さなテーブルにカップを置きながら、アンナの視線が、机の引き出しに半ば隠れた新しい紙札をかすめる。


「……また、明日の局員を悩ませる札を書いていらしたのですね?」

「ただの余興よ。社交の練習のようなものだわ」

「左様でございますか」


 アンナは何もかも見透かしたような目をしている。

 実際、見透かされているのだ。

 私の「顔を見ない掟」が三年間も破綻せずに済んでいるのは、彼女の徹底した物理的なサポートがあるからに他ならない。

 玄関で荷物を受け取るとき、私が不自然にうつむかずに済むよう、アンナは絶妙なタイミングで「お嬢様、お足元に」と段差を指摘して私の視線を下へ誘導する。

 ガゼボでのお茶会では、彼が私の正面に立たないよう、椅子の配置とティーカップの取っ手の角度まで計算して、絶対に目が合わない三十度のズレを作り出している。


 彼女は何も言わない。

 言わないまま、私が顔を上げずに彼の手元だけを観察できる動線を、完璧に整え続けているのだ。


「明日の朝も、私が玄関に立ち会います。……よろしいですね?」


 私の背後に回り、手櫛で銀糸の髪を解きながら、アンナが静かに問いかける。


「ええ。いつも通りに」

「いつも通り。そうですね」


 アンナは私の髪をブラシで梳きながら、くすっと喉の奥で笑った。鏡越しに目が合う。


「いつまでも『見ないふり』で済めば、よろしいのですけれど」

「……何が言いたいの?」

「別に? ただ、お嬢様のその涙ぐましい努力も、そろそろ限界ではないかと思いまして」

「限界なんてきていないわ。私は完璧に彼と距離を保って……」

「完璧に、彼の手袋の縫い目ばかりを見つめていらっしゃる」


 図星を刺され、私は反論の言葉を喉に詰まらせた。


「手、肩、鞄の真鍮の金具。お嬢様の視線がどこを彷徨っているか、彼もそろそろ不思議に思う頃合いではありませんか?」

「そんなことないわ。彼は……優秀な配達員だもの。侯爵家の威圧感だと思って、余計な詮索はしないはずよ」

「ええ、とても優秀です。だからこそ、気づいているかもしれませんよ。自分に向けられた、その熱烈な観察眼に」


 アンナは、本当に性格が悪い。

 分かっていて、わざと私の逃げ道を一つずつ塞いでくる。


「もし彼が気づいたとして、勘違いで名乗り出たらどうなると思うの? 平民が侯爵令嬢の詩を自分宛てだと主張するのよ。最悪の場合、不敬罪で彼が罰せられるかもしれないじゃない」

「ええ、その通りです。お嬢様のお立場では、明確な言葉を与えることはできない。だからこそ、比喩という安全圏から出られない。……実に正しいご判断です」


 ブラシの動きが止まる。

 アンナは鏡越しの私に向かって、にっこりと、完璧なメイドの微笑みを浮かべた。


「だからこそ、比喩ではなく、物理的な接触を試みたわけですね?」

「……え?」

「ガリレオの鎖を、彼が来る時間に合わせて、絶妙な長さまで緩めて」


 心臓が、ひやりと冷たい音を立てた。


「あれは……事故よ。偶然、ガリレオの機嫌が悪くて」

「事故、ですか。鍵がたまたま緩んでいて、たまたま庭へ飛び出し、たまたまお嬢様が『温かい牛乳』の助言をする機会に恵まれたと?」


 言い逃れを探す私の肩に、アンナの手がぽんと置かれた。


「お嬢様。あの日の作戦会議、私が聞いていなかったとでもお思いですか?」

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