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第11話「共犯者は侍女頭」

「お嬢様。あの日の作戦会議、私が聞いていなかったとでもお思いですか?」


 肩に置かれたアンナの手は、少しの力もこもっていない。

 なのに、鉛の塊でも乗せられたかのように、私の身体は一ミリも動かせなくなった。


 鏡越しのアンナは、いつものように背筋をぴんと伸ばし、静かな顔でこちらを見下ろしている。怒っているわけではない。呆れているわけでもない。ただ、事実をそこへ並べただけ。それが一番怖いのだ。


「……作戦会議、なんて。何のことかしら」


 声が震えないように、喉の奥をぐっと締める。令嬢としての完璧な発声。誰が聞いても、不心得な使用人を優雅にたしなめる女主人の声だ。

 だが、アンナの左手が再び銀色のブラシを取り上げ、私の銀糸の髪を梳き始めると、その規則正しい音が残酷なカウントダウンのように聞こえてきた。


「先週の木曜の夜、お嬢様が私に『彼が来る時間だけ、ガリレオが門扉まで届いたらいいのに』とため息をつかれたことですか? それを受けて、私が庭師のトムに鎖を三(ひろ)だけ長く調整させ、見事に彼が門をくぐった瞬間にガリレオが飛びかかった。……お怪我の治療にかこつけて、彼を屋敷の奥へ引き入れる算段でしたね」

「ち、違うわ。あれは当家の番犬の健康管理という重要な……」

「ガリレオはとても賢い犬です。普段なら見知らぬ人間にあそこまで激しく噛みつきはしません。……直前に、私がこっそり彼のお気に入りの骨を取り上げて隠さない限りは」


 アンナのブラシが、私の髪の毛先をすっと抜ける。

 心地よいはずのその感触が、今はただただ背筋を凍らせた。自分の主人の無茶な願望を完璧に現場へ落とし込んだ張本人が、涼しい顔で種明かしをしているのだから。


「待って。もういいわ、アンナ」

「牛乳の助言もそうです。思いのほかガリレオが本気で彼の脛を噛んでしまったため、お嬢様はひどく焦って彼を茶会に呼び出し、『温めた牛乳を少し与えれば犬は落ち着くわ』と、侯爵令嬢にあるまじき動物の世話の知恵をお授けになった。彼が自分でミルクを用意して、もう一度ガリレオに会いに来るように仕向けるために」

「だから待ってと言っているじゃない!」


 令嬢の仮面が、音を立てて粉砕された。

 私は椅子から立ち上がり、手近にあった一番大きなシルクのクッションを引っ摑むと、それを盾にするように胸に抱え込んだ。


 アンナは空になった椅子と私を交互に見て、ふぅむ、とだけ言った。


「当家としては、そのように扱います、とおっしゃっていましたね」

「言ったわよ。言ったけど!」

「それは礼を欠きます、とも」

「だから! あれは……その、そう言わないと不自然でしょう?」


 クッションに顔の半分を埋めながら、私は早口でまくし立てた。

 だって、仕方ないじゃない。

 普通に「こんにちは、お怪我はありませんか」なんて声をかけたら、どうして侯爵家の長女が一介の配達員を気に留めるのか、まわりから怪しまれてしまう。だから、あくまで『当家の管理不行き届きによる事故の事後処理』という、隙のない完璧な建前を作る必要があったのだ。


「違うの、そういう意味じゃなくて……。私はただ、彼が侯爵邸の配達を嫌がって、担当を外れてしまったら困ると思っただけなの」

「なるほど。優秀な配達員を失うのは、リントヴルム家の損失であると?」

「そ、そうよ! そういうことなの」

「で、ほんとは?」


 アンナの低い声が、一切の装飾を剝ぎ取るように落ちた。


 部屋が静まり返る。

 窓の外から、夜風が庭の木々を揺らす音だけが微かに聞こえてきた。

 私は抱え込んだクッションをぎゅっと握りしめ、視線を床の絨毯の模様へと落とした。幾何学模様の線を目でなぞりながら、絞り出すように口を開く。


「……少しでも、長く引き止めたかったの」


 声が、自分でも驚くほど小さかった。


「手紙の受け渡しの十秒だけじゃなくて。彼がどんな声で困るのか、どんな顔で……いいえ、顔は見ないわ。でも、どんな風に手袋を外すのか、そういうのを知りたかったのよ」

「要するに、ただ会って声を聞きたかったのですね」


 アンナの容赦ない要約が胸に突き刺さる。

 私は弾かれたように顔を上げた。


「別に期待なんてしていないわ! 彼が私の詩の意味に気づくなんて思ってないし、気づかれたら困るの。彼が不敬罪で捕まるかもしれないもの」

「ええ、分かっていますよ。お嬢様」

「していないけれど……少しは気になるじゃない。私がこんなに手を尽くして、あなたに鎖までいじらせて、わざと怪我の口実を作ったのに、彼ったら本当に『念のためです』なんて言って事務的に片付けるのよ? 少しは動揺してもいいと思わない?」


 自分がどれほど理不尽なことを言っているか、頭の片隅では分かっている。

 自分で仕組んだ事故のくせに、彼の反応が薄いことに腹を立てるなんて、頭のおかしい令嬢だ。

 でも、アンナの前でだけは、この感情の泥濘を吐き出さずにはいられなかった。


 アンナはブラシを鏡台の上に静かに置き、私の正面へと歩み寄ってきた。

 その顔にはもう、意地悪な追及の光はない。いつもの、少しだけ面倒見のいい年上の相談相手の顔だった。


「お嬢様、そういうところよ」

「……何が」

「気づいてほしいのに、気づかれたら困る。会いたいのに、建前が壊れるのは嫌。その両方を満たすために、犬を狂暴化させるという斜め上の実力行使に出る。……不器用にも程があります」

「うっ……」


 言い返せない。

 クッションに顔を埋め直すと、アンナは私の背中をぽんぽんと軽く叩いた。まるで、拗ねた子供をあやすような手つきで。


「でも、それでいいのです」

「……え?」

「お嬢様が直接的な言葉を使えない以上、環境で彼を縛るしかない。ガリレオの件は少し流血の事態を招き手荒でしたが、結果として彼に『侯爵邸の犬に対処した』という実績と、『お嬢様からの助言を受けた』という事実を作りました。これは次の接触のための、立派な足場になります」


 アンナの言葉のトーンが変わった。

 先ほどまでの追及モードから、完璧な侍女頭としての実務モードへ。


「いいですか、お嬢様。恋愛というのは、ただ待っているだけでは始まりません。偶然を装い、必然の罠を張るのです。ガリレオ事件の失敗は、私が責任を持って明日の『詫びの茶会』への口実に変換いたしました」


 そう言えば、そうだ。

 番犬が配達員の脛を噛んだ。その非礼を詫びるという名目で、明日、南庭のガゼボに彼を呼び出す手はずになっている。

 普通なら玄関先で終わるはずの配達員とのやり取りが、茶会という「滞在を強要する空間」へと格上げされたのだ。


「明日の茶会ですが、お席の配置はどうなさいましょうか」

「席の、配置?」

「はい。彼を西向きに座らせれば、お嬢様からは彼の手元と、ティーカップを持つ指先が最も美しく見える光の角度になります。逆に東向きに座らせれば、お嬢様は彼から顔を隠しやすくなる。どちらを選びますか?」


 アンナの問いかけに、私は息を呑んだ。

 この人は、私が『顔を見ない掟』を守っていることすら完全に織り込み済みで、その上で私に主導権を握らせようとしている。

 ただの傍観者なんかじゃない。この恋の、一番恐ろしくて一番頼もしい共犯者だ。


「……西向きで、お願い」


 私はクッション越しに、小さな声で答えた。


「承知いたしました」


 アンナは満足そうに微笑み、床に落ちていた私のショールを拾い上げた。


「さて、明日は忙しくなりますよ。彼がガゼボに足を踏み入れた瞬間から、逃げ道のない完璧な『おもてなし』が始まります。お嬢様はただ、冷徹で気高い侯爵令嬢として、彼の手の動きだけを観察していればよろしいのです」

「分かっているわ。……私、絶対にボロは出さないから」


 強く言い切りながら、頭の中では早くも明日の彼の姿を想像していた。

 彼が私の用意した空間で、どんな風に困惑し、どんな風にその几帳面な手でティーカップを扱うのか。


 もし彼が、少しでも私の仕掛けた細部に気づいてくれたら。

 その時、彼は一体どんな風に、手袋を外すのだろう。


 ――いや、だめ。顔は見ない。絶対に見ないわ。


 私は自分に言い聞かせるように、ぎゅっとクッションを抱きしめ直した。

 窓の外で、ガリレオが短く吠える声が聞こえた気がした。

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