第12話「指先への言及と、完璧なおもてなし」
リントヴルム侯爵邸の南庭には、よく手入れされた芝生と、白亜のガゼボがある。
普段なら配達員が足を踏み入れる場所ではない。だが今日は『ガリレオによる負傷への詫び』という大義名分のもと、俺はそのガゼボに招かれていた。
侯爵令嬢とお茶を飲む。
平民の配達員が受ける待遇としては、明らかに異常だ。ここで浮かれて調子に乗れば、不敬罪で首が飛ぶ。常に最悪の事態を想定し、ただの「業務の延長」として振る舞わなければならない。
侍女頭のアンナに案内され、俺は西向きの席に座らされた。
正面には、リントヴルム侯爵家長女、クラウディア様が座っている。透き通るような銀糸の髪と、感情を一切読ませない冷ややかな顔立ち。彼女は今日も、絵画のように隙がなかった。
「本日は、時間を取らせて申し訳ありません」
「いえ。気になさらないでください」
俺は膝の上で手袋を重ねたまま、できるだけ抑揚を消して答えた。
テーブルの上には、精緻な花柄が描かれた白磁のティーカップが置かれている。彼女が静かに手を伸ばし、俺の方へカップを勧めた。
「どうぞ。当家の庭園で採れた茶葉です」
「……ありがとうございます。頂戴します」
俺は手を伸ばそうとして、一瞬だけ動作を止めた。
ティーカップの縁に添えられた、彼女の指先。
そこに、明らかな違和感があった。
前回お会いした時と違う。
爪の形だ。元々綺麗に切り揃えられていたが、今日は異様に滑らかな曲線を描き、薄紅色の光沢を放っている。何度も丁寧に磨き上げなければ、あんな艶は出ない。
配達員として、宛名の文字の掠れや封蝋のひび割れを見逃さないよう訓練してきた俺の目が、その違いをはっきりと捉えていた。
なぜ、あそこまで念入りに手入れを?
お茶会の客を迎え入れるための、貴族としての身だしなみだろうか。それとも……。
俺は思考を物理的に打ち切った。
自意識過剰は身を滅ぼす。「もしかして俺のために」などという希望的観測は、破滅への直行便だ。侯爵家の体面として整えただけ、そう解釈するのが最も安全である。
しかし、問題が一つある。
これほど明らかに手が加えられているものに対して、一切触れないのは逆に無礼にあたるのではないか?
貴族社会では、身だしなみの変化に気づかないことは「あなたに関心がありません」という敵対行動と見なされるという話を、郵便局の先輩から聞いたことがある。
だが、相手は侯爵令嬢だ。平民の男が「お嬢様の爪、綺麗ですね」などと口走れば、それはそれで馴れ馴れしいと見なされて衛兵を呼ばれる可能性がある。
言うべきか。黙るべきか。
テーブルの上で、俺の手が三秒ほど宙で固まった。
どうすれば安全にこの場をやり過ごせる。
視線を斜め上へ逃がした時、クラウディア様の斜め後ろに控えているアンナと目が合った。
アンナは表情をピクリとも変えず、銀のトレイを持っている自分の手をわずかに動かし、自分の指先を軽く示した。そして、俺にしか見えない角度で、小さく一度だけ頷いた。
明確な合図だった。
――言え。
そう指示されたとしか思えなかった。
侯爵邸の侍女頭が、わざわざあの合図を出した。つまり、今の状況において「爪の変化に言及すること」は、不敬には当たらず、むしろ推奨される礼法なのだ。
俺は一つ息を吸い、テーブルに手を伸ばしてカップの取っ手を掴んだ。
言葉の選択には細心の注意を払う。下心ではなく、あくまで事実の観察として。
「……素晴らしいお茶ですね。器の造形も見事です」
「当家が代々使っているものですから」
「ええ。それに……」
俺はカップを持ち上げたまま、クラウディア様の指先へと視線を落とした。
「お嬢様の指先が、とても綺麗に整えられていて。その白磁の器に、非常によく映えておられます」
言った。
言い切った直後、俺は自分の言葉が少し回りくどすぎたかと後悔した。しかし、これ以上無難な表現が見つからなかったのだ。
クラウディア様は、ピタリと動きを止めた。
膝の上に置かれた彼女の両手が、わずかに震えたように見えた。
間違えたか。
血の気が引く。俺は反射的に言い訳の構文を組み立てた。
「も、申し訳ありません。配達の業務上、荷物の状態や相手の細部を確認する癖がついておりまして。つい念のために観察してしまい……不快に思われたなら、お詫びいたします」
沈黙が落ちた。
クラウディア様の顔は、いつも通り氷のように冷たく、視線はこちらを見ていない。俺の手袋のあたりをじっと見つめている。
「……構いません」
数秒後、彼女の口から静かな声が紡がれた。
「当家としては、お客様をお迎えするにあたり、これくらいは当然の身だしなみです。その程度のことで、不快には思いません」
冷徹で、完璧な令嬢の返答だった。
俺は密かに胸を撫で下ろした。どうやら、首の皮一枚で不敬罪は免れたらしい。アンナの合図のおかげだ。
*
心臓が、肋骨を突き破って飛び出しそうだった。
気づいてくれた。
彼が、私の爪に気づいてくれた。
昨日の夜から、アンナに何度も磨き直させて、今日のこの時のために準備した、私の指先に。
私は今、彼の手袋の親指の付け根あたりに視線を固定している。
顔は絶対に見ない。見れば、私がどれほど狂喜しているか、表情筋が完全に崩壊しているのがバレてしまうからだ。
『お嬢様の指先が、とても綺麗に整えられていて。その白磁の器に、非常によく映えておられます』
彼の少し硬い、実務的な声が、頭の中で何度も反響している。
ああ、なんてよく見てくれる人なのだろう。
私が何も言わなくても、彼の方から気づいて、言葉にしてくれた。お父様の客として来る貴族の殿方たちは、私の顔や家柄しか見ないのに。彼は、私の一番小さな変化を見つけてくれた。
『申し訳ありません。配達の業務上、荷物の状態や相手の細部を確認する癖がついておりまして』
業務。
彼がそう言い訳をしてくれるおかげで、この時間はただの「お詫びの茶会」という建前を保てている。
業務だというなら、仕方がない。業務の一環として私を見てしまったのなら、それは許されることだ。
「……構いません」
私は、喉の奥から絞り出すようにして、精一杯の冷たい声を作った。
令嬢の仮面。リントヴルム侯爵家の長女としての誇り。それらを総動員して、彼に言葉を返す。
「当家としては、お客様をお迎えするにあたり、これくらいは当然の身だしなみです。その程度のことで、不快には思いません」
完璧だ。声の震えは抑え切った。
けれど、胸の奥の火の粉が燃え上がりすぎて、熱のやり場がなかった。このまま黙っていれば、顔が緩んでしまう。何か、何か別のことをして、この異常な高揚感をごまかさなければ。
「アンナ」
私は、斜め後ろに立つアンナを呼んだ。
「お茶が冷めています。新しいものを淹れ直しなさい。それから、西の領地から届いた果実のコンポートも。彼は外を走り回る仕事をしているのだから、甘いものが必要でしょう」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
「待って。東の領地から届いた焼き菓子も出しなさい。彼には長旅の疲れがあるかもしれないのだから」
「……お嬢様、焼き菓子は先ほどお出ししたばかりですが」
「種類が足りないと言っているのです。当家の茶会で、客人を満足させられないのは礼を欠きます」
自分でも、少し早口になっているのがわかった。
だが止まらなかった。彼が私を見てくれたことへの報酬を、何か物理的な形で与えたくて仕方がなかったのだ。
視界の端で、レイが少しだけ肩をすくませたような気配がした。戸惑っているのはわかったが、彼は断らなかった。
運ばれてきた新しいお茶、大皿に盛られた焼き菓子、鮮やかな色のコンポート。
レイはわずかに手袋を直すと、出されたものを黙々と、一つ残らず平らげていった。貴族の礼儀に背くまいとする彼なりの真面目さなのだろうが、私にとっては、自分の気遣いを彼がすべて受け取ってくれているという確信そのものだった。
「美味しいお茶と、素晴らしいお菓子を、ありがとうございました。ガリレオのことについても、ご配慮に感謝いたします」
テーブルの上がすっかり綺麗になった頃、彼はようやく立ち上がり、深く頭を下げた。
私は小さく頷くだけで返した。彼が踵を返し、ガゼボの階段を降りていく足音が遠ざかるまで、私は彫像のように動かなかった。
庭園の砂利を踏む音が完全に消え、アンナが周囲に誰もいないことを確認して小さく咳払いをした瞬間。
私は、膝の上に置いていた両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
「……っ、あああああ!」
「お嬢様、声が大きゅうございます。誰かに聞かれますよ」
アンナの呆れたような声が降ってくる。だが、そんなことはどうでもよかった。
「聞いた!? アンナ、聞いたわよね! 彼、私の爪を見てくれたわ! 私から何も言っていないのに!」
「ええ、しっかりと拝聴いたしました。さすがは王都で一番有能な配達員ですね。よく見ておられます」
「そうよ! 彼は有能なの。ただ荷物を運ぶだけじゃなくて、相手のことを正しく見てくれるのよ!」
私は顔を上げ、ガゼボの柱に寄りかかった。
胸の高鳴りが、まだ収まらない。爪を整えるという小さな仕掛けが、これほどの見返りを持って返ってくるとは思わなかった。
彼と繋がっている。私の仕掛けた言葉のない暗号を、彼だけが正確に解読してくれたのだ。
「それにしても、お嬢様。あやうく夕食の分まで運ばせるところでしたよ。ですが、彼も見事な食べっぷりでしたね。出されたものを残すまいと、必死な顔をしておられました」
「仕方ないじゃない。あんなことを言われたら、当家の面子として最大限の返礼をしなければならないでしょう。それに、彼はちゃんと全部食べてくれたわ」
私はそっぽを向きながら言い訳をした。
アンナは小さく息を吐き、空になったお皿やティーカップをトレイに下げ始めた。
「まあ、よろしいでしょう。今日のところは、お嬢様の『おもてなし』は成功ということにいたします」
「……ええ」
私は自分の指先を見つめた。
薄紅色の爪が、夕暮れの光を反射して光っている。
もっと。
次は、もっと別の形で彼に会いたい。彼に私を見つけてほしい。
月に一回の返却儀式だけでは、もう足りない。私から仕掛けたこの小さな接触が、こんなにも甘い毒のように私を侵食していく。
次は、何をしよう。
彼がまた、業務という建前で私に近づくための口実を。
私は空になった皿の余韻を感じながら、まだ見ぬ明日の計画に思考を沈めていった。




