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第13話「冷たい風と、言い訳の薬効茶」

 その「明日」が、ついにやってきた。

 朝。鏡台の前に座る私の姿勢は、定規を当てたように完璧だったはずだ。背筋を伸ばし、顎を引き、侯爵令嬢(こうしゃくれいじょう)としての涼やかな表情をミリ単位で維持している。


 ただ一つ、膝の上で組んだ指先が、ドレスの絹地をギュッと握りしめて放さないこと以外は。


「アンナ」

「はい、お嬢様。本日三度目の『今日は郵便の返却日だったかしら』のご確認ですね」


 私の背後に立つアンナは、銀のブラシで私の髪を梳きながら、抑揚のない声で先回りした。鏡越しに目が合う。彼女の表情は使用人として完全に凪いでいるが、その奥にある絶対的な『理解』が私をチクチクと刺してくる。


「……違うわ。当家の郵便管理が、王都の規律に遅れをとっていないか、家を預かる者として念のために状況を把握しておきたいだけよ」

「左様でございますか。ご立派な心がけです。返却の時刻はいつも通り、午後を予定しております。当家の時計も、王都郵便局の時計も、狂ってはおりませんよ」


 髪をまとめるピンが、カチリと小気味良い音を立てた。

 私は小さく唇を噛む。


 分かっている。自分が今、どれほど滑稽な言い訳をしているかくらい。

 昨日の茶会で、彼が私の爪の微細な変化に気づいてくれた。その事実が、一晩経ってもまったく頭から離れてくれないのだ。

 ベッドの中で目を閉じても、彼が少しだけ視線を下げて「綺麗ですね」と言ってくれた(と、私が解釈している)瞬間の残像が、瞼の裏で何度も再生される。そのたびに熱が顔に集まって、結局、明け方までろくに眠れなかった。


 彼が来る。

 私がだしたでたらめな宛先の詩歌便を、当家の執事が「本物の差出人は当家ではない」と突き返す。

 三年間、ずっとあの紙札の向こう側にいた彼が、今日の午後、その受取拒否の儀式のために、またあの南庭のガゼボに現れる。

 今までは「私の言葉が戻ってくる日」だったはずの返却日が、いつの間にか「あの人が物理的にこの屋敷の敷地を踏む日」へと、私の中で決定的にすり替わっている。


 ああ、どうしよう。

 会いたい。早くあの静かな足音を聞きたい。

 でも、侯爵令嬢たるものが、平民の配達員を待ちわびてそわそわするなんて、あってはならないことだ。建前が必要だ。私が彼と接触するための、誰の目から見ても不自然ではない、完璧で冷徹な大義名分が。


 そう思考を巡らせながら、朝の支度を終えて廊下に出たときだった。


「午後からはまた風が冷たくなるそうですよ。窓枠を拭く手が悴んでしまって」

「本当ね。私の兄なんて、一日外仕事だから気の毒で。最近は下町で流行ってる薬効茶(やっこうちゃ)ってやつを水筒に詰めて持たせてるのよ」


 曲がり角の先から、窓拭きをしているメイドたちの潜めた声が聞こえてきた。

 私はピタリと足を止める。後ろを歩いていたアンナが、無言で私の背中を見る気配がした。


「薬効茶?」

「ええ。木の根やら乾燥させた生姜やらを煮出した、泥水みたいな色のお茶なんですけど。味はひどいけど、飲むと胃の底からカッと熱くなって、一日中体がポカポカするらしいですよ。外で働く男衆には欠かせないみたいで」


 外で働く。男衆。

 一日中、冷たい風の中を歩き回る仕事。


 私の脳内で、見えない歯車が凄まじい勢いで噛み合った。

 それだ。


 私は静かに踵を返し、何事もなかったかのように自室へ戻る。扉が閉まり、アンナと二人きりになった瞬間、私は振り返った。


「アンナ」

「はい」

「午後からは、今朝よりもさらに風が冷え込むという天候予測が出ていたわね」

「……私の記憶が正しければ、昨日の新聞には『当面は穏やかな秋晴れ』とありましたが」

「いいえ、冷えるわ。侯爵家の長女としての私の直感がそう告げているの」


 アンナは瞬きを一つした。それから、スッと両手を前で組む。


「承知いたしました。お嬢様がそう仰るなら、午後は冷雨が降るのでしょう。それで?」

「先ほどのメイドたちの話を偶然耳にして、少し気になったのだけれど。王都の労働環境を把握することは、将来の領地経営においても有益な視座をもたらすはずよ。その……『薬効茶』なるものを、少し取り寄せてみなさい」


 完璧だ。これ以上ないほど理路整然とした要求である。

 私は扇子を手に取り、パチンと開いて口元を隠した。自分の頬が緩んでいるのを隠すための、防御姿勢だ。


「薬効茶、でございますね。よろしいのですか? あれは安価な香辛料の寄せ集め。侯爵邸のティーカップに注ぐような代物ではございません。お嬢様のお口には到底……」

「私が飲むとは言っていないでしょう」


 私は扇子越しに、少しだけ声を低くした。


「当家は寛大よ。……そう、たとえば。本日午後にやってくる郵便局の配達員。彼もまた、王都の流通を支える労働者の一人。冷たい風の中、わざわざ受取拒否の処理のために足を運ばせるのだから。労いとして、その……労働者向けの茶を一杯振る舞うくらい、貴族の『慈悲』として不自然ではないでしょう?」


 部屋に、完全な沈黙が落ちた。

 秒針の音が三回鳴る間、アンナは私の目をじっと見つめていた。その無表情の奥で、彼女が盛大に呆れ果てているのが痛いほど伝わってくる。


「……つまり」

 アンナは、極めて事務的なトーンで私の言葉を翻訳し始めた。

「今日の午後にいらっしゃる『あの配達員』の体が冷えているかもしれないから、彼が普段飲み慣れていて、一番体が温まるであろうお茶を、わざわざ下町から急いで調達してこい、と。そういうご命令でよろしいですね?」


「ちっ、違うわ! 違う、そうじゃないの!」

 私は扇子をバンッと閉じた。侯爵令嬢の仮面が音を立ててひび割れる。

「別に彼のためじゃなくて! あくまで一般論として、外で働く者の健康管理のサンプルとして……!」


「はいはい。一般論、ですね。承知いたしました」

 アンナは私の悲鳴のような言い訳を途中で切り捨てると、深々と一礼した。

「優秀な当家の厨房なら、午後までに最高級の生姜と薬効根を手配し、平民の味を上品に、かつ効果は倍増させて再現できるでしょう。大至急、準備に回らせます。すべては、お嬢様の『寛大な慈悲』のために」


 アンナが部屋を出ていく。

 一人残された私は、熱くなった両手で自分の頬を覆った。


 ……ああ、もう。完全にバレている。

 でも、止められなかった。


 詩歌便で交わす、比喩と隠喩の美しい世界。それだけで私は満足していたはずだった。顔も見ない、触れもしない、ただ言葉の端々に見え隠れする彼の誠実さだけで、三年間生きてきた。

 なのに今は、彼がどんな風に歩き、どんな服を着て、どれくらい寒さを感じているのか、そんな物理的なことばかりが気になって仕方ない。

 私の恋は、インクの匂いから、煮出した生姜の匂いへと、ひどく俗っぽくて、取り返しのつかない重さを持ち始めている。


 時計の針が、昼を回る。

 窓の外の影が、少しずつ伸びていく。


 南庭のガゼボにセッティングされたテーブルの上には、いつもの美しい磁器のティーポットではなく、少し無骨な保温用のポットが置かれていた。かすかに、土と香辛料の野趣あふれる香りが漂っている。


「お嬢様」

 背後に控えていたアンナが、静かに声を落とした。


「門番より知らせがありました。王都郵便局の配達員が、当家の門を潜ったとのことです」


 呼吸が、一瞬止まる。

 手袋の下の指先が、微かに震えた。私は膝の上で両手を強く組み直し、ゆっくりと顔を上げる。


 来る。

 私の仕掛けた、言い訳だらけの温かい毒を、彼は一体どう受け取るのだろうか。

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