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第14話「労働者の茶と、完璧な翻訳」

 静かな足音が、南庭の芝生を踏みしめて近づいてくる。

 その規則正しいリズムが耳に届いただけで、喉の奥がカラカラに乾いていくのがわかった。


 私はガゼボの籐椅子に深く腰掛けたまま、背筋を数ミリ伸ばす。

 膝の上で重ねた両手には、純白のレースの手袋。表情は、リントヴルム侯爵家長女としての冷ややかな造作に固定する。大丈夫、鏡の前で何度も確認した。今の私は、ただの儀式として業務をこなす、完璧な貴族の娘に見えるはずだ。


 視界の端に、色褪せた紺色の配達員制服が映った。

 分厚い革の鞄。丁寧に手入れされたブーツのつま先。


 私は自らに課した「顔を見ない掟」に従い、視線を彼の胸元の銀ボタンから上には絶対にあげない。顔を見てしまえば、私が詩の中で大事に育ててきた聖域と現実が重なって、この仮面が吹き飛んでしまうとわかっているからだ。


「……王都郵便局より、参りました」


 低く、事務的な声。

 傍らに立つ白手袋の執事が無言で銀盆を差し出し、宛先不明として弾かれた詩歌便の紙札が、彼の手へと戻される。

 三年間続く、滑稽で残酷な受取拒否の儀式。彼はそれを、感情の読めない慣れた手つきで革鞄に収めた。


 いつもなら、これで終わりだ。ここで彼は背を向ける。

 だが、今日は違う。

 私は小さく顎を引き、背後に控えるアンナに視線だけで合図を送った。


 アンナが一歩前に出て、テーブルの中央に置かれた少し無骨な保温ポットに手を伸ばす。

 いつもなら、金彩の施された美しいティーポットから、華やかな香りの紅茶が注がれる場面だ。しかし今日、アンナが私の向かいの席——彼が立ったまま受け取るためのカップ——に注いだのは、赤褐色をした濁りのある液体だった。


 途端に、土と香辛料、そして強い生姜の香りがガゼボの中に広がる。

 優雅な薔薇の咲き誇る南庭には、およそ似つかわしくない、泥臭いほど実用的な匂い。


 王都の下町で、冬の朝に荷揚げ労働者たちが好んで飲むという、体を内側から温めるための『薬効茶(やっこうちゃ)』。

 今朝、侍女たちの立ち話を耳にしてからわずか数時間。アンナに無茶を言って厨房を急かさせ、最高級の素材で再現させた、ただの一労働者に対する過剰すぎる思い入れの結晶。


(……怒るかしら)


 膝の上の指先が、きつくドレスの生地を掴む。

 侯爵家がこんな安い茶を出すなんて、馬鹿にしているのかと不快になるだろうか。それとも、私のあけすけすぎる干渉に引いてしまうだろうか。

 インクと比喩で隠された詩の世界なら、いくらでも大胆になれた。なのに、現実の彼の体を気遣うという、たったそれだけの物理的な好意を示すだけで、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。


 彼は無言のまま、テーブルの上のティーカップを見下ろしていた。

 時間が、ひどく長く感じられる。


  *


 レイ・ハルトは、差し出されたカップから立ち上る湯気をじっと見つめていた。

 返却の儀式を終え、辞去しようとした矢先に勧められた一杯の茶。


 湯気から漂ってくるのは、ダージリンでもアールグレイでもない。

 乾燥させた木の根、強い生姜、そして独特の苦みを持つ薬草の匂い。


(……薬効茶、か)


 王都の配達員なら誰もが知っている。冬場や雨の日に、関節が強張るのを防ぐために屋台で立ち飲みする、銅貨三枚の安茶だ。

 なぜ、それがリントヴルム侯爵邸の、この上等な白磁のカップに注がれているのか。


 レイの脳内で、瞬時に最悪の可能性から順に検証が始まる。

 これは「お前の身分にはこの程度の泥水が相応しい」という、侯爵家からの暗黙の侮蔑だろうか。

 いや、違う。カップは指が透けるほど薄い最高級品で、茶の温度は完璧に管理されている。添えられた焼き菓子も、いつもより素朴だが明らかに一流の職人が焼いたものだ。嫌がらせにここまで手間をかける貴族はいない。


 ならば、結論は一つしかない。


(俺の疲労を察して、わざわざ平民向けの茶を調べて用意した……?)


 途端に、背筋に冷たい汗が伝う感覚があった。

 それは、嬉しいという感情より先に「致死量の危険」を知らせる警鐘だった。


 侯爵令嬢が、平民の配達員の体調を気遣い、その生活圏の文化まで調べて急遽茶を用意する。

 もしその事実を「自分への個人的な好意」として受け取ってしまえば、どうなるか。身分違いの勘違い男として社会的に抹殺されるか、最悪の場合は不敬罪で首が飛ぶ。


 だから、気づかないフリをしなければならない。

 これはあくまで「侯爵家が、出入りの労働者へ与えた一般的な慈悲」として処理しなければならない。


 だが、どう言葉にする?

 「平民の茶をありがとうございます」と言えば、相手の労力を下等なものと断じる無礼になる。かといって「俺のためにわざわざ」などと言えば、一線を越える。

 正解の言葉が見つからず、レイはカップを手にしたまま沈黙してしまった。


 その時だった。

 令嬢の背後に控えていた侍女頭のアンナと、ふと視線が交差した。


 アンナは、冷徹な使用人の顔を一切崩さないまま、自らの右手を静かに持ち上げ、自分の左肩をトントンと軽く叩いた。

 ほんの一瞬の動作。

 だが、現場の人間にとって「肩を叩く」のは万国共通のサインだ。


 ——疲労。肩こり。冷え。


(……なるほど)


 レイは小さく息を吐き出した。

 侍女頭がわざわざ助け舟を出したということは、この茶は間違いなく「体調への配慮」であり、かつ「体調への配慮として受け取って構わない」という許可証だ。


 レイは手袋越しにカップの温度を確かめ、静かに一口飲んだ。

 強い生姜の刺激が、喉から胃の奥へと落ちていき、確かな熱を広げていく。銅貨三枚の屋台のものとは比べ物にならない、澄んだ味わいだった。


「……素晴らしいお茶です」


 レイは、極めて事務的な、配達員としての敬意だけを込めたトーンで口を開いた。


「冷えが芯から抜けていくようです。外を走り回る労働者にとって、この上ないお心遣い……痛み入ります。午後の配達も、これで滞りなく進められます」


 個人の感情は一切出さない。

 これは「業務上の疲労」に対する「雇用主側(侯爵家)」からの配慮であり、自分はそれを「業務効率の向上」として感謝する。そういう完璧な翻訳だった。


  *


(通じた……!)


 彼が静かな声で紡いだ言葉を聞いた瞬間、目の前が弾けるように明るくなった気がした。


 ただ飲んでくれただけじゃない。

 彼はこの不格好なお茶の意味を、「外を走り回る自分のため」の配慮だと、正確に読み取ってくれたのだ。

 侯爵家の茶会でこんなものを出されたら、困惑するのが普通だ。なのに彼は、私の意図を一滴もこぼさずに掬い上げ、しかも身分差の壁を越えない「労働者へのねぎらい」という完璧な建前で返してくれた。


 膝の上で重ねていた指先が、どうしようもなく震え始める。

 感情を抑え込むためのレースの手袋が、今は自分の動揺を隠すための包帯のように思えた。


 顔が熱い。

 だめ、ここで表情を崩してはいけない。私はリントヴルム侯爵家の長女。冷たく、気高く、ただの儀式として彼を見送らなければ。


「……ええ」


 なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦っていた。


「王都を駆け回るお仕事ですもの。その労をねぎらうのは、当家としての当然の配慮です」


(当然の配慮、ですって! どの口が言うの!)

 今朝思いついたばかりのくせに。アンナを巻き込んで厨房をひっくり返し、ポットの温度まで細かく指定して急ごしらえで作らせたくせに。


 私の精一杯の虚勢を、彼は「はい」と短く受け止めた。


「では、業務に戻ります。失礼いたしました」


 彼が軽く一礼し、踵を返す。

 私は、彼の青い制服の背中と、少し重たそうに揺れる鞄が門の向こうへ消えていくまで、ただ息を詰めて見送ることしかできなかった。


 ◇


「ああっ、もう!!」


 自室の扉が閉まった瞬間、私はドレスの裾も気にせずベッドに倒れ込み、大きなクッションに顔を埋めた。

 足をバタバタと振るうたびに、シルクのシーツが擦れる音がする。


「通じた! 飲んでくれた! 嫌な顔ひとつしなかったわ!」


 クッションに塞がれた声はくぐもっていたけれど、そんなことはどうでもよかった。

 部屋の隅で、今日持ち帰ったばかりの新しい茶葉を棚にしまっていたアンナが、呆れたような声を出す。


「お嬢様、足がはしたないですよ。それに、あれだけ露骨な香りをさせていれば、嫌でも気づくでしょうに」

「違うの、アンナ! 彼はただ気づいたんじゃないわ。ちゃんと『外を走り回る労働者にとって』って、自分に向けられたものだって分かってくれたのよ!」


 私はクッションを抱きしめたまま跳ね起き、アンナの方を振り返る。


「それに、あの言い方! 私の立場が悪くならないように、ちゃんと『当家の心遣い』として受け取ってくれたの。なんて聡明なのかしら。どうしよう、次のお茶会ではお茶菓子も下町のものにしたほうがいいかしら? 黒パンのサンドイッチとか……」

「それはやりすぎです。当家の料理長が泣きますよ」


 アンナは淡々と私の暴走を切り捨てながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。


「ですが、まあ……ご自身の口で感謝を述べるだけの機転はある方のようですね。今朝からのあの慌ただしさも、無駄にはならなかったということです」


 アンナの言葉に、私は再びクッションに顔を埋めた。


 嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。

 詩の中の隠語で通じ合うのも好きだった。けれど、私が選んだお茶で彼の冷えた体が温まったという、ただその物理的な事実が、今までの何十通の詩歌便よりも重く、私の心を熱くしていた。


(早く……)


 早く、次の詩を書きたい。

 インクの匂いよりも強い、あの生姜と大地の香りの記憶が残っているうちに。

 彼が私の薬効茶を飲んでくれたという事実を、絶対に誰にも解けない比喩で、彼だけに届く言葉で、書き残さなければ。


 私はベッドから飛び起きると、まだ顔の熱も引かないまま、真っ直ぐに羽根ペンの置かれた机へと向かった。

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