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第15話「雨の日の配達員と、泥だらけの靴先」

 王都の雨は、配達員にとって厄介な敵だ。

 石畳は容赦なく滑り、革靴の中に冷たい水が染み込んでくる。そして何より、手紙が濡れる。


「先輩、これ、もうダメじゃないですか?」


 朝の仕分け台で、後輩のミラが眉をひそめて一枚の封筒をつまみ上げた。

 ひどい有様だった。安物の紙は雨水をたっぷり吸ってふやけ、インクが完全に溶け出している。肝心の宛名部分は、ただの青黒い染みと化していた。


「差出人不明、宛名判読不能。これはもう、規定通り『保留棚』行きですよね。そもそも読めないんだから届けようがないし」


 ミラが諦め顔で保留カゴに入れようとした手を、レイは無言で止めた。


「貸してくれ」


 封筒を受け取る。レイは指先で、濡れた紙の端をそっとなぞった。

 パルプの質が粗い。東部の製紙工房から出た安い紙だ。

 インクの滲み方を見る。安い煤と水で溶いた粗悪なインク。だが、筆圧だけはやけに強い。特に「区」という字の跳ねや、「様」の最後の払い。文字の形は崩れているが、力を込めて書かれた痕跡が紙の凹凸として確かに残っている。


「……ミラ。これ、昨日東門のポストから回収された分か?」

「え? あ、はい。一番底の方に張り付いてました」


 レイは目を閉じ、王都の地図と、これまでの自分の配達記録を頭の中で重ね合わせた。

 東部の粗悪な紙。水で溶いたインク。この特有の強い筆圧。そして、東門のポスト。


「宛先は、西の十三区。第三路地の裏手にある靴職人の長屋だ」

「は?」


 ミラが素っ頓狂な声を上げた。


「毎月この時期に、東門のポストから同じ紙、同じ筆圧で出される手紙がある。過去の記録と照合すれば、届け先は絞れる」


 レイは油紙を取り出し、ふやけた封筒を丁寧に包み直した。


「これならまだ間に合う。俺の担当区のついでだ、届けておく」

「いやいやいや……」


 ミラが若干引いたような顔をした。


「先輩、こわいですよ。なんで文字が溶けてるのにそこまで分かるんですか」

「ただの記録と物理的な照合だ。業務上、特徴のある筆跡や紙質は頭に入れている。念のためにな」


 透視でも何でもない。ただの観察と記憶の引き出しだ。

 届くべきものを、届かないまま終わらせるのがひどく気持ち悪い。それだけのことだ。

 ……それに、意味の分からない比喩で埋め尽くされた難解な紙札を、三年間、毎晩毎晩読み解き続けているのだ。この程度のインクの滲みなど、あの詩歌便の解読に比べれば、ただのパズルに等しい。


「じゃあ、行ってくる」


 レイは油紙で包んだ手紙を鞄の安全なポケットに滑り込ませ、雨の降る王都の街へ踏み出した。


 数時間後。

 予想通り、西の十三区の長屋で手紙を渡すことができた。配達員としては完璧な仕事をしたと思う。我ながら、非の打ち所のない実務能力だ。


 だが、問題はその後だった。

 雨は昼過ぎに上がったが、路地裏の泥濘みは残っていた。

 そしてレイは今、王都で最も床が磨き上げられているであろう場所――リントヴルム侯爵邸の玄関ホールに立っている。


「……申し訳ありません」


 レイは、自分の足元を見て小さく息を吐いた。

 どれだけ靴裏を拭っても、革の隙間に入り込んだ泥が、大理石の床に微かな汚れを残していた。


 完璧な配達員としての矜持はどこへ行ったのか。

 これから「お詫びの形式」という名目の、極めて胃の痛くなる茶会が控えているというのに、よりによって泥だらけの靴で足を踏み入れてしまった。レイは微かな焦りを覚えながら、執事の後を追って南庭へと向かった。


  *


「お嬢様、落ち着いてください。ドレスの裾が乱れております」

「落ち着いているわよ、アンナ。私、とっても冷静だわ」


 南庭のガゼボで、私は扇で口元を隠しながら、ふわりと笑った。

 先日、彼に出した「薬効茶」の成功が、まだ胸の中で甘く燻っている。

 彼が、私が平民の文化を調べて選んだお茶の香りをちゃんと理解してくれた。そして、「侯爵家からの配慮」という完璧な建前で、それを受け取ってくれた。


 私の言葉が、行動が、ちゃんと彼に届いた。

 その事実だけで、今日の雨上がりの空さえ、祝福のように美しく見えた。


「そろそろ、ハルト様がご到着される頃合いです。……お嬢様、顔がにやけておりますよ」

「にやけてなんていないわ! 私はただ、当家の慈悲深い振る舞いが正しく伝わったことに、当主の娘として安堵しているだけです」


 必死で表情を引き締めるが、どうしても口角が上がってしまう。

 彼が来る。

 今日もまた、彼と同じ空間で息ができる。


「失礼いたします」


 執事の案内に連れられて、ガゼボの入り口に彼が姿を現した。

 私は「顔を見ない掟」に従い、視線を彼の胸元へと落とす。

 雨に濡れたのか、制服の紺色がいつもより濃い。肩のあたりが少し湿っているように見えた。


「本日はお足元の悪い中、ご足労いただき感謝いたします。当家の手違いにより、またしてもご迷惑をおかけしました」


 完璧な令嬢の声音で、定型の挨拶を口にする。

 彼は深く頭を下げた。


「いえ。配達は私の業務ですので。……ただ」


 彼が、少しだけ言い淀んだ。

 私は不思議に思い、視線を少しだけ下へずらす。

 彼の手元。いつものように綺麗に手入れされた鞄。そして、その下。


 彼の靴先が、泥にまみれていた。


 いつもしっかりと磨かれているはずの革靴が、今日は白っぽい泥と水はねでひどく汚れている。彼が足を踏み出すたびに、ガゼボの敷物に微かな泥の跡がついた。

 彼はそれをひどく気にしているのか、足を小さく縮こまらせていた。


「申し訳ありません。靴の泥を落としきれず……お見苦しいところを」


 いつも淡々としている彼が、ほんの少しだけ焦ったような、恥じ入るような声を出した。

 その瞬間、私の胸の奥で、何かが強く跳ねた。


 雨の中、泥濘む道を、彼は歩いてきたのだ。

 重い鞄を抱え、誰かの手紙を濡らさないように庇いながら。

 冷たい雨の中を、この泥だらけの靴で、王都中を駆け回っていた。

 そしてそのまま、私のために、この場所へ来てくれた。


(あぁ……)


 胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 気づけば、私の視線は泥だらけの靴先から、雨に濡れた彼の足元、綺麗に手入れされた鞄、少し湿った制服の肩、そして胸元のボタンへと、無意識のうちに這い上がっていた。


「今日は、その……大変でしたでしょ……」


 喉の奥が震え、思わず声が漏れた。

 視線が、彼の胸元からさらに上へ、顎の手前まで上がりかける。

 もう少しで、顔を見てしまう。顔を見て、「無理をしていないか」と、侯爵令嬢にあるまじき本音をぶつけてしまいそうになる。


「コホン」


 背後で、アンナが小さく、しかし鋭い咳払いをした。

 ハッとして、私は息を呑む。

 視線を、慌てて彼の胸元へと引き戻す。喉まで出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。


「……大変でしたでしょ。その……雨上がりの配達は」


 扇を握る手に、ぎゅっと力を込める。

 私はどうにか声の震えを抑え込み、令嬢としての仮面を被り直した。


「……お茶のお代わりは、いかがですか。いつもより、少し熱めにしてありますから」


 彼は、少しだけ目を見張ったように沈黙し、それから静かに頷いた。


「……お気遣い、感謝いたします。いただきます」


 彼の平坦な言葉が、今はとてもありがたかった。

 私は膝の上で両手を強く握りしめ、必死に自分の体温を下げようとする。


(危なかった……)


 もう少しで、彼に触れてしまうところだった。顔を見てしまうところだった。

 靴の泥。ただそれだけのものに、彼の過ごした過酷な時間と誠実さを見てしまった。

 自分の恋が、どれほど危うい防波堤のギリギリのところまで来ているかを、私は思い知らされていた。

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