第17話「外野の爆笑と、迫り来る足元の比喩」
(……この壮大なすれ違い、いつになったら終わるの?)
ミラはそっと天を仰いだ。
王都特有の冷たい雨が降り始めようとしている窓の外と、熱気にあふれる控え室の温度差に、思わずため息が漏れる。
「いやあ、しかしリントヴルム侯爵家も手が込んでるよな。ただの政治批判じゃなく、『泥濘に咲く白き花』って表現で、下層民の反骨精神を評価してるわけだろ?」
「教養がありすぎるのも考えものだな。俺たちじゃ、解説してもらわなきゃ一生わからねえよ」
大理石の仕分け台の周りでは、先輩局員たちがまだ先ほどの詩歌便の話題で盛り上がっている。
彼らは完全に「壮大な政治的暗喩」だと思い込んでいるが、ミラだけは真相に気づいていた。昨日、雨上がりの配達を終えて戻ってきたレイ・ハルトの靴が、酷く泥だらけだったことを知っているからだ。
あれは政治批判などではない。泥だらけの靴で荷物を届けに来た不器用な配達員への、侯爵令嬢なりの精一杯の気遣いと慰めだ。
「そういや、こっちの札も相変わらずだぞ。例の男爵から子爵令嬢への連作ポエム」
先輩局員の一人が、別の区画の棚から弾かれた一枚の札を掲げて話題を変えた。
局内では密かに「おじさん構文」と呼ばれ、生温かい目で見守られている一方通行の求愛通信、その最新号である。
「男爵の昨日の札が、『あぁ、麗しの君。朝露の輝きは君の涙か。沈黙の焦らしすら、私には甘い果実』だったよな。で、今日返ってきた令嬢からの札がこれだ」
先輩局員が、わざとらしく咳払いをして読み上げる。
「『先般の書類は署名不備のため受領いたしかねます。今後のご連絡は、私書箱を通じた通常便にてお願いいたします』」
仕分け台の周辺で、ドッと遠慮のない笑いが弾けた。
「事務連絡!」
「ポエムですらねえ!」
「『沈黙は甘い果実』とか言ってたのに、思いっきり物理で扉閉められてるぞ!」
ゲラゲラと笑う局員たちに合わせて、ミラも苦笑いを浮かべる。
だが、そっと視線を向けた先――自分の担当分の荷物を革鞄に詰め込んでいるレイだけは、表情筋をミリ単位で固定したまま、微塵も笑っていなかった。
男爵の一方通行は喜劇だが、レイの置かれている状況は、一歩間違えれば不敬罪による社会的な死に直結する。笑えるわけがないのだ。
「……いやあ、見事なシャットアウトですね。レイ先輩」
ミラは荷物をまとめる手を動かしながら、わざと軽く声をかけた。
「業務中の私語は慎め、ミラ。特急便の束は確認したか」
「出た、模範解答。確認済みですよ」
レイは顔を上げず、配達用の分厚い防水外套を羽織る。その無駄のない動作を見つめながら、ミラは少しだけ意地悪な質問を滑り込ませた。
「でも先輩、雨の日の配達って大変ですよね。昨日も、お屋敷に着いたときには靴が酷く泥だらけだったんじゃないですか?」
「……」
レイの手が、外套のボタンを留める途中で、ほんの一瞬だけ止まった。
だが、それだけだった。すぐに息を一つ吐き、完璧な実務的トーンで返す。
「規定通りの防水手入れはしている。それに、靴の泥を落とすのも業務のうちだ。何の問題もない」
(うわあ、完璧な防御。でも、さっきあの侯爵邸の札を油紙に包んだ時の手つき、絶対分かっててやってるよな……)
ミラは内心で盛大にツッコミを入れつつ、「ですよねー」と適当に相槌を打った。
この鋼鉄の自制心がいつ決壊するのか。観測者としての興味は尽きないが、これ以上踏み込むのは危険だと、ミラの勘が告げていた。
「出発する」
レイは短く告げると、重い革鞄を肩に掛け、降り始めた雨の中へと歩き出していった。
*
王都の石畳を、冷たい雨が叩きつけている。
防水加工された外套が水滴を弾く音を聞きながら、レイは荷馬車の手綱を静かに握っていた。
肩に掛けた革鞄の奥底。幾重にも包んだ油紙の中にある、今朝の『泥濘に咲く白き花』の札の重みが、胸の奥をじわりと圧迫する。
(……違います。先輩たちの言うような、政治の暗喩なんかじゃありません)
レイは雨だれの音に紛れさせるように、心の中で静かに吐き出した。
あれは昨日、自分が南庭のガゼボに踏み入れた際、見苦しく汚してしまっていた靴先への、彼女なりの労りだ。
間違いない。三十九通目の時点で、レイはすべての確信を得ている。
だが、レイを静かな恐怖で満たしているのは、「好意を向けられていること」そのものではなかった。
比喩の解像度が、物理的に距離を詰めてきていることだ。
三年前、彼女が詠む詩はもっと遠い風景だった。「見知らぬ鳥」や「遠くの雷鳴」、庭園の木々の移ろい。
それが、ここ数ヶ月でどうだ。
「荷を運ぶ手」「使い込まれた革鞄」そして「泥のついた靴」。
彼女の視線が、単なる風景から、レイ・ハルトという個人の極私的な部分へと、明確にフォーカスを絞ってきている。その場にいた当事者にしか絶対に分からない所作や事象が、詩という形をとって露骨に現れ始めているのだ。
(距離が、縮まっている……)
レイは手綱を握る手に力を込めた。
このままいけば、次は何だ。
雨の日に自分が着ている、この紺色の外套のことか。それとも、毎日持ち歩いている油紙そのもののことか。
もし、この先、言い逃れが不可能なほど直接的な事象が詠まれたら。
『――その包みを、ほどいて見せて』と、踏み込まれたら。
その時、自分は今日のように、無表情を保って「政治の暗喩ですね」とやり過ごすことができるのか。
「……ッ」
レイは深く息を吸い込み、冷たい雨の空気で肺を満たした。
平民の配達員が、侯爵令嬢の恋文を「自分宛てだ」と名乗り出れば、待っているのは破滅だけだ。相手を傷つけ、自分も死ぬ。だから、絶対に気づいてはならない。気づかないフリを、何があっても貫き通さなければならない。
車輪が水たまりを跳ね飛ばす。
三十九通。
節目となる次の、四十通目が。
レイの鋼鉄の自制心を打ち砕こうと、すぐそこまで迫っていた。




