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第16話「泥濘と油紙」

「……お気遣い、感謝いたします。いただきます」


 彼の平坦な言葉が、今はとてもありがたかった。

 私は膝の上でドレスを強く握りしめ、必死に自分の体温を下げようとする。


(危なかった……)


 もう少しで、彼に触れてしまうところだった。顔を見てしまうところだった。

 靴の泥。ただそれだけのものに、彼の過ごした過酷な時間と誠実さを見てしまった。

 自分の恋が、どれほど危うい防波堤のギリギリのところまで来ているかを、私は思い知らされていた。


 手元の扇を少しだけ閉じ、視線を彼の胸元へと固定する。真鍮のボタン。綺麗に整えられた襟。そして、雨粒ひとつ付いていない分厚い革鞄。

 南庭のガゼボに現れた彼の靴先には、べっとりと泥がこびりついている。けれど彼の制服も鞄も、少しの汚れも残さずに拭い清められているのだ。

 彼が今日、どれほどの雨の中を歩いてきたのか。そして、私の出した宛先不明の詩歌便(しいかびん)を濡らさないために、どれほど気を配ってここまで運んできたのか。

 それを想像した瞬間、胸の奥で何かが決壊しそうになった。侯爵令嬢の建前など放り出して、「雨の中、ご苦労様。寒くはない?」と、頭の悪い恋愛劇のヒロインのような言葉を口走ってしまいそうになったのだ。


 カチャ、とソーサーにカップが置かれる小さな音がした。


「……結構なお点前でした」

「お粗末様でございますわ」


 平坦で私情を一切挟まない彼の声に、私も完璧な令嬢の声音で返す。

 彼は、椅子の端にしか座っていない。泥のついた靴が、決して侯爵邸の絨毯や敷石を汚さないように、つま先を小さく引いて座っている。

 アンナが音もなく進み出て、空になったティーカップを下げる。同時に、私の肩の後ろにスッと立ち、まるで「これ以上は前へ出ないように」と見えない壁を作るように控えた。


「それでは、確認の刻印を」


 白手袋の執事が、銀の盆に載せた一枚の紙札を差し出す。

 宛先不明。受取拒否。

 三年間続く、残酷で、甘美な儀式の時間が始まる。


「当家には、該当する者はおりません。お引き取りを」

「承知いたしました。規定に従い、返送の処理とさせていただきます」


 執事の機械的な声に、彼は静かに頷いた。

 彼は革鞄を開き、油紙で二重に保護された束の中に、私の詩歌便を丁寧にしまい込む。

 顔は見ない。

 絶対に、顔だけは見ない。

 今この距離で彼の瞳を見てしまえば、私が詩の中に作り上げた「顔のない宛先」が、現実の彼と完全に結びついてしまう。そうすればもう、安全な比喩の裏側に隠れることはできなくなる。


「失礼いたします」


 深い一礼ののち、彼は踵を返した。

 遠ざかる彼の足音を背中で聞きながら、私は膝の上でドレスの布地をさらに強く握りしめた。

 泥のついた靴。丁寧に畳まれた油紙。私を気遣う静かな所作。

 彼の一つひとつの動きが、私の理性を内側から削り取っていく。このままでは、遠からず私の方が耐えられなくなる。


  *


 翌朝。

 王都郵便局の仕分け室は、早朝からちょっとした熱気に包まれていた。

 原因は、仕分け台のど真ん中に置かれた一枚の分厚い紙札。

 リントヴルム侯爵邸から差し出された、宛先不明の詩歌便だった。


「おい、今日のやつは一段と難解だぞ!」


 先輩局員の一人が、大仰な身振りで紙札を指差した。


「『泥濘に咲く白き花、雨だれの音に〜』……これ、どういう意味だ?」


 ミラは、手元の小包を仕分けながら、半眼でその騒ぎを眺めていた。

(またやってるよ……)

 王都の貴族が交わす詩歌便の中身を推測するのは、今や局員たちの非公式な娯楽になっている。特に、三年も宛先不明でループし続けている侯爵令嬢の詩は、彼らにとって最高の暗号解読ゲームだった。


「決まってるだろ。泥濘ってのは今の王都の政治腐敗だ。白き花は侯爵家の潔白さを示してるんだよ! つまり、これは腐敗に立ち向かう政敵への密書だ!」

「いやいや、雨だれってのは涙の暗喩だ。どこかの有力貴族の訃報に対する悲しみに違いない」

「お前ら分かってないな。これは最近流行りの、異国の神話になぞらえた……」


(違うと思いますけど)

 ミラは心の中で、強烈なツッコミを入れた。

 どう読んでも、泥だらけになって配達に来た『誰か』への、激重な気遣いポエムである。昨日、土砂降りの中でにじんだ宛名すら完璧に届けてみせたレイ先輩の姿を知っていれば、一秒で分かることだ。


「こっちの男爵からの詩歌便なんか酷いぞ。『小鳥よ、私の籠で鳴いておくれ』だ。ただの強欲なオッサンの欲望丸出しじゃないか」

「それに比べて、リントヴルム侯爵令嬢の詩の、なんと奥ゆかしく高潔なことか!」


(いや、ベクトルが違うだけで、侯爵令嬢の詩も相当重たいですよ……)

 ミラがそっと視線を横に向けると、当のレイ・ハルト本人が、無表情で仕分け作業を続けていた。


「レイ、お前はどう思う?」


 先輩局員の一人が、面白半分に話を振った。

 レイは小包の宛名書きから一切視線を上げず、紙札の方を見向きもしなかった。作業の手を止めないまま、淡々と口を開く。


「……私には、貴族の高度な教養は分かりません」

「だよなあ! 俺たち平民には縁のない世界だ!」


 ワハハ、と笑い合う局員たちの中で、レイだけが静かに紙札を回収し、油紙で包んで自分の鞄にしまった。

 その手つきが、いつもよりほんの少しだけ……本当にミリ単位で、丁寧だったことに、ミラだけが気づいていた。

(……レイ先輩、絶対分かっててやってるな、これ)


 控え室の隅にある黒板。

 そこには『レイ・ハルトの陥落日』という題で、局員たちの予想が書き込まれている。


「今日も持ち越しか」


 後ろから、足を引きずるような歩み寄りの音がした。ボンド局長だ。

 局長は黒板を一瞥すると、鼻で笑って自分の執務室へ戻っていった。

 ミラは、手元の荷物をドンと台に置いた。

 侯爵令嬢の隠しきれない本音と、レイ先輩の鋼鉄の自制心。そして、的外れな解釈で盛り上がる局員たち。


(……この壮大なすれ違い、いつになったら終わるの?)


 ミラはそっと天を仰いだ。

 外は今日も、王都特有の冷たい雨が降り始めようとしていた。

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