第18話「油紙の結び目と、赤すぎる仮病」
冷たい雨が降ったあの日から、二週間近くが過ぎていた。
王都郵便局の朝は、いつもインクと紙の匂いがする。レイ・ハルトは自分の担当区である仕分け台の前に立ち、次々と流れてくる束を無心で捌いていた。視線は宛名だけを冷徹に拾い上げ、札の裏面に書かれた詩歌には決して焦点を合わせない。それが三年間の彼の生存戦略だった。
(……数日前の茶会は、問題なくやり過ごせたはずだ)
手を動かしながら、レイは微かな違和感を反芻していた。
数日前、侯爵邸の南庭で開かれた茶会。そこでレイは、彼女の詩に散りばめられた極私的な描写の接近を牽制するように、あくまで業務上の工夫としてこう告げたのだ。
『大切なものは、油紙で二重に包んで、必ず雨からお守りします』と。
あくまで配達員としての建前。それ以上の意味は持たせない。それで、彼女の意識も再び「遠い風景」へと戻るはずだった。
「お、今日のポエムはなんだ? いつもより生活感があるな」
隣の台で仕分けをしていた先輩局員が、リントヴルム侯爵家の飾り紐が通された分厚い紙札をひらひらと揺らしながら読み上げた。
「『冷たい雨を弾き、言葉を守る、その分厚い油紙』……ふむふむ。で、続きが『けれど本当は。その結び目を解いて、中にある花に、あなたの手で触れてほしいのです』……か」
「おや、今回はずいぶんと直球で情熱的じゃないか!」
別の局員が身を乗り出して茶化す。だが、すぐに別の声が勝ち誇ったように被さった。
「バカ言え。あの『氷の侯爵令嬢』がそんな色恋沙汰を書くかよ。これは高度な政治的暗喩だ。冷たい雨は他国からの干渉、それを弾く油紙は強固な国境警備だろう」
「なるほど、じゃあ『結び目を解いて中の花に触れてほしい』ってのは?」
「鎖国政策を緩めて、自国の産業(花)に外の風を入れろってことじゃないか? 保護貿易の撤廃を訴えてるんだよ!」
「おお、さすがは侯爵家。見事な憂国の詩だな!」
わははは、と仕分け台のあちこちで、的外れで無責任な賞賛の笑いが起きる。
局員たちの盛大な誤読大会の喧騒の中で。レイの息の吸い方だけが、数秒間、止まっていた。
(油紙の、結び目を解け……?)
視線を落とさないようにしていても、先輩の口から語られた言葉が脳内に直接叩き込まれる。
局員たちは笑っているが、レイにはわかっていた。それは遠い空や星の比喩ではない。レイ・ハルトという個人の、物理的な手元を明確に指定した、直球のアンサーだった。
レイは平然とした顔で先輩からその四十通目の札を受け取り、革鞄の指定位置に滑り込ませた。声帯の震えはない。手先の動きも滑らかだ。
だが、革鞄の蓋を閉める直前、無意識に左手の親指が札の端を強く擦っていた。
平民が、貴族の娘の言葉を「自分に向けられたもの」だと誤認すれば、待っているのは社会的な死だ。だから気づかないフリをしなければならない。
しかし、この直接的な言葉を前に、もはや「政治の暗喩」などという逃げ道は機能しない。レイの堅牢な防壁が、内側から高熱で溶かされ始めていた。
*
午後。石畳を踏み、レイはリントヴルム侯爵邸の玄関に立っていた。
いつものように、受取拒否の定型をこなすための時間だ。
重厚な扉が開く。しかし、現れたのは白手袋の執事でも、冷徹な表情を貼り付けたクラウディアでもなかった。メイド長のアンナが、静かに一礼して立っていた。
「本日は私が承ります、配達員さん」
「……お嬢様は、ご不在ですか」
レイが業務上の確認として尋ねると、アンナは表情を一切崩さず、しかし声の温度だけを微かに変えて言った。
「ええ。お嬢様は少し、お熱がおありでして」
「お熱、ですか」
「はい。お顔がとても真っ赤になっておいでで。本日はどなたともお会いできない、とのことです」
アンナの黒い瞳が、レイを真っ直ぐに見ていた。
病気ではない。朝に耳へ飛び込んできた四十通目の詩と、目の前のアンナの言葉が、レイの脳内で完璧に連結される。
彼女は、深夜の熱で書いたあの詩の破壊力に朝になってから気づき、恥ずかしさに耐えきれず自室に逃げ込んでいるのだ。
「――本物の差出人は当家ではございません。処分は配達員に一任いたします」
アンナの口から、三年間繰り返されてきた定型の拒否文言が紡がれる。
彼女が不在であろうと、この儀式の形だけは決して崩してはならない。レイは帽子のつばに手をかけ、深く頭を下げた。
「承知いたしました。では、こちらの品は当方で持ち帰ります」
完璧な配達員の顔のまま、レイは一礼して背を向け、門へ向かって歩き出す。
足取りは乱れなかった。だが、鞄の革紐を握るレイの手は、血ののぼるような彼女の「羞恥」という感情の質量を受け止め、じわりと汗を滲ませていた。
*
「あああああ……っ!」
侯爵邸の二階。分厚い天蓋の落ちる自室のベッドで、クラウディアは大きなクッションに顔を埋め、両足をバタバタと無様に動かしていた。
令嬢としての品位など、今の彼女には一欠片もない。
深夜の静けさと、数日前の茶会での彼の言葉が、自分をどうかさせていたのだ。
『大切なものは、油紙で包んでいますから』
その低く誠実な声が耳に残っていて、気づけば筆を走らせていた。結び目を解いてほしい。触れてほしい。投函した直後は、ひどく高揚していた。
しかし、朝の光とともに冷静さが戻った瞬間、自分が何を書き送ったのかを理解し、顔から火が出るほどの羞恥に襲われた。
(あんなの、ほとんど裸の告白じゃない……!)
コンコン、と控えめなノックの音がして、アンナが入ってくる。
「お嬢様。本日の配達員さん、お帰りになりましたよ」
「……なんて言っていたの? あんなにあからさまな言葉……彼、驚いていなかった? 困惑していなかったかしら」
クッションから顔を半分だけ出し、矢継ぎ早に問い詰めるクラウディアに、アンナは少しだけ肩をすくめた。
「いいえ。いつものように涼しいお顔で『承知いたしました。当方で持ち帰ります』と、完璧に定型をこなしてお帰りになりました。いつも通りの、優秀な配達員さんでしたよ」
「……え?」
クラウディアの動きが、ピタリと止まった。
「涼しい顔、で……帰った……?」
「ええ」
カアァッと、先ほどまでの羞恥とは違う熱が、クラウディアの顔を一気に染め上げた。
私があんなに恥を忍んで、心の内を曝け出したのに。今朝は恥ずかしさのあまり玄関にすら出られず、こうしてクッションに顔を押し付けて悶え苦しんでいるというのに。
なぜ、自分だけがこんなに振り回されていて、あの方は平気な顔で『いつもの業務』をこなしているのか。
「……悔しいわ」
クラウディアはクッションをぎゅっと抱きしめ、天蓋を睨みつけた。
「絶対に、あの方のあの『完璧な配達員』の顔を崩して、意識させてやるわ……!」
恥ずかしさは、燃え上がるような意地へと変わっていた。
*
夜。
六畳一間の薄暗い自室で、レイは床板を外し、木箱を引き出していた。
三十九枚の札が、油紙に包まれて整然と眠っている。その上に、今日の四十通目を重ねる。
札の縁を揃えようとしたとき、紙が微かにカサリと音を立てた。
レイは、自分の手が止まっていることに気づいた。
いや、止まっているのではない。指先が、小刻みに震えているのだ。
『その結び目を解いて、中にある花に、あなたの手で触れてほしいのです』
お熱がおありで。顔が真っ赤で。
アンナの言葉が重なる。ただの比喩だったはずの詩が、生々しい体温と呼吸を持って、レイの喉元に刃を突きつけている。
踏み外せば破滅だ。分かっている。今日だって、玄関先では完璧に『気づかないフリ』を通して見せたはずだ。
レイは強く目を閉じ、震える指を無理やり押さえつけて、木箱の蓋を閉めた。
しかし、震えはすぐには収まらなかった。
彼女の熱が、防壁の向こう側から本気で自分を焼き尽くそうとしている。四十通目でこれほどの直撃を受けたなら、次はいったい、どんな言葉が届くというのか。
暗い部屋の中で、レイはただ一人、明日への圧倒的な恐怖に息を潜めていた。




