第7話 冷たい雨と届かない刃
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どれだけ歩いただろう。集落を離れ、さらに広大なエスト町の外縁へと進むにつれ、のどかだった景色は徐々に険しさを増していった。
急に空が暗転し、大粒の雨が降り始めたのは昼下がりのことだった。
ぬかるむ土に足をとられながら、視界を遮る激しい雨の中を必死に突き進む。冷たい水滴が容赦なく体温を奪い、アルからもらった上着がぐっしょりと重く肌に張り付いた。
「くそ……、前が、よく見えない……」
その時だった。
茂みの奥から、濡れた獣の強烈な臭いと、低く地を這うような唸り声が響いた。
泥を跳ね上げて飛び出してきたのは、教科書に載っていた獰猛な野犬型の魔物――ガルムだった。飢えたぎる赤黒い目が、明確に僕を「獲物」として捉えている。
「あ――」
心臓が跳ね上がる。逃げようと後ろに飛び退いたが、ぬかるんだ泥にローファーが滑り、無様にその場に転倒した。
ガルムが容赦なく牙を剥いて飛びかかってくる。
僕はパニックになりながらも、腰の短剣を必死に引き抜き、目の前に突き出した。
キィン、と硬い音が響く。
アルの手入れのおかげで辛うじて刃は折れなかったが、ひ弱な僕の腕力では、魔物の突進の衝撃を殺しきれない。凄まじい衝撃が両腕を突き抜け、短剣が手から弾き飛ばされた。
「がはっ……!」
そのまま地面を転がり、鋭い爪が僕の肩から脇腹にかけてを深く切り裂いた。
激痛が走る。ボロ布のように泥まみれになりながら、必死に背後へ這いつくばって逃げようとするが、ガルムはすでに僕の目の前に立ち塞がっていた。
(スキルもない、魔法もない、ただの人間が……勝てるわけないだろ……)
視界が自分の血の赤と、激しい雨の白でパチパチと明滅する。
息が上がって上手く吸えない。喉の奥が鉄の味で満たされる。
もう一度牙を剥いたガルムの影が、僕の視界を完全に覆い尽くした。
抗う術はもう何も残っていなかった。重い衝撃とともに、僕の意識は冷たい泥の中に深く沈んでいった。
激痛が全身を走り、肉が引き千切られる生々しい感覚が僕を襲った。
ガルムの鋭い牙が容赦なく僕の体に食い込み、抗う力なんて1ミリも残されていない。ただ生きたまま貪り食われる恐怖と痛みの中で、視界が急速に真っ暗になっていく。
(……ああ、ここで終わりか)
遠のいていく意識の暗闇の中で、また、色々なことが思い出された。
静まり返った自分の部屋。ヘッドホンから漏れるボカロの音。
深夜の冷たい空気と、自動販売機のオレンジ色の光。
「最高メンツでBBQ!」と笑うクラスメイトたちの眩しすぎるSNSの画面。
そして――。
夕暮れの誰もいない教室で、困ったように僕を見つめていた、あの子の顔。
『ねえ、佐藤くん。もう、無理しなくていいよ』
(どうして。どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……)
ただ、逃げたかっただけなのに。
傷つきたくなくて、誰も自分を知らない場所で、ただ一人で息をしていたかっただけなのに。
元の世界でも弾き出され、異世界に来ても何一つ特別な力なんて貰えなくて、挙げ句の果てに、こんな世界の隅っこの誰も知らない泥の中で、無様に食い殺されて消えるなんて。
「なんでだよ……。何のために、僕はここまで歩いてきたんだ……」
答えをくれる人は誰もいない。
体には、無情にも激しさを増した雨が打ちつける。傷口の中にも雨水が、入り込む。
(痛い…痛い…)
やがて、打ち付ける、冷たい雨の音すら聞こえなくなってきた。
「俺は…やっぱり無力なんだ…」
僕は深い、深い、終わりのないような意識の底へと完全に落ちていった。
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