姉妹
何もかもが手遅れになる一歩手前で、ガラスが砕け散る音がした。月光を反射させる破片の中、一際煌びやかな銀色が靡いた。
窓を蹴破って現れた結は、薙刀を携え“威装”姿で二階に滑り込んだ。和助の方だけを見ると足に力を込める。
「輪転“翠嵐”」
その一言と共に、鴎にも肌で感じられるほどの何かが、結から迸った。風によって遮るものが除かれた直線を、結は疾走する。そうして放たれた神速の斬撃は、しかし妖しい光に見極められていた。
両眼を光らせた和助は、半身をのけぞらせて薙刀を避けた。
瞬時の攻防に目を奪われていた鴎の体を、結から発せられた風が包んだ。
「うっ!?」
すると、鴎はそのままビルの外へと吹き飛ばされた。閉鎖的な空間というのは、案外安心感も与えるものだということを痛感する。
「ひっ」
足元から何もなくなった時点で、鴎は恐ろしさのあまり目を閉じていた。平衡感覚が消え失せ、上昇してるのか、下降しているのかも判断のできない時間が過ぎ、何かに叩きつけられた。
衝撃に目を開くと、そこはアスファルトだかコンクリートだか見分けのつかない鼠色の床だった。ブンブンと首を回しながら辺りを観察することで、転がっているのが恐らくビルの屋上だということが分かった。結が風を使って逃がしてくれたのだ。
そこで思考の止まっていた鴎の頭に、どさりと言う音が聞こえた。後ろを見ると、息も絶え絶えのクレアが横たわっていた。鴎と同じように運ばれてきたらしい。
「クレア!」
近寄ろうとすると、また一つ人影が屋上の柵を飛び越えて現れた。
「結!」
こちらも憔悴した様子の結が、薙刀に体を預けつつ頷く。
「どうして……」
庵は反対していたし、結も勝手に動くわけにはいかないと言っていたはずだ。まさか一人で抜け出してきたのだろうか。
「話したら許してくれました」
汗を額に浮かべながら、さらりと事も無げに言うと、無表情でVサインを作って見せてきた。その姿に、安堵感も相まって鴎は泣きそうになる。
しかし、ゲホゲホとせき込む音が聞こえ、そんな場合ではないと思い出す。
見れば、クレアは何とか床から体を離そうと苦戦していた。まだ血の止まっていない体で起き上がろうとする姿は見るも痛々しいものだった。胸と床の間に入れてつっかえ棒のようにしていた右腕が、ガクリと力なく折れる。
「クレア、まだ体が」
そう言って駆け寄る鴎を、クレアはやたらめったらに腕を振り回して拒んだ。
「近寄るな!」
腹を押さえながら、息を絞り出す。
「私は一人でやる」
一人でやる、とは手を貸すな、ということだろうか、まだ一人で戦うということだろうか。
合わせようとしない瞳に、鴎はどちらでもあり、すべてだと分かった。
「無茶だよ、そんな、怪我は治ってないでしょ」
呼吸をするのだって苦しいはずなのに。
「怪我なんか関係ない!」
血と一緒に言葉を吐き捨てるようだった。震える体を懸命に支えながら、クレアは一人で立ち上がろうとしている、一人になろうとしている。
鴎はその姿に、瞳の暗さの理由を見た。そして同時に、それを払えるのはやはり自分ではないと思った。クレアが日本まで来た理由は、自分ではないのだ。
そうと理解していても、声を掛けずにはいられず、差し出した右手はまたもや声の壁に阻まれた。
「クレア…」
「体調がよかろうが、悪かろうが、私を気に掛けるやつなんていなかったんだ! 私はずっと一人で生きてきた! 助けてなんか言ったことないし助けられたこともない! これからだってずっとそうだ! あんたたちにだって、助けてほしくなんてない!」
猫だって驚かせない声の大きさが、しかし鴎の胸を押しつぶしそうだった。
こんな土壇場で、いや、土壇場だからこそ、クレアは頑ななのだろう。常に苦しい立場にあったクレアにとって、窮地を救われることは弱みを握らせるのと同義であり、避けるためにはなりふり構っていられないのだ。
今クレアがいるのは、もうそんな場所ではない、と思いながらもどうにもできず、鴎が虚しく手を下ろすと、後ろで声がした。
「そうですか」
変わらぬ表情の結が、ごく軽い調子で続ける。
「でも私たちは助けますよ」
鴎は驚いて結の顔を見たが、クレアの驚きはそれ以上の様だった。上げた顔はぽかんとしていて場違いだった。
しかしそれも束の間、抜き身の刀のような鋭さと厳しさを持った目が結を見据えた。
「なんであんたが? 私に興味なんてないんでしょ!?」
クレアの激しさをいなすのではなく、正面から受け止めつつも、そのまま返すような真似はしなかった。
結はふるふると首を振った。
「あんな話を聞いて、無関心ではいられません。だから今ここにいます」
そうだ、結はクレアが殺されそうなときに現れ、止めた。鴎だけを助けに来たのなら、その間に逃がしてしまえばいい。結はクレアのことも助けに来たのだ。
熱を持っていた頭が結の態度に冷やされ、クレアもそのことに気づいたようだった。何か反論を探そうとしているが、上手く出てこない。
誤解されやすい結の落ち着き様も、今は場に穏やかな流れを与えていた。静かな声が風に乗ってクレアに届く。
「別れてから何度も考えたんです。私たちは似た時間を過ごしてきたんじゃないかって。もしそうなんだったら、仲良くなれるかもしれない、もっと話してみたいって」
不意打ちだった。クレアが、密かに抱いていた期待に裏切られ、抱いていた悪感情も、こうも腹を割って話されると続きようがなかった。
両親からも誰からも掛けられたことのなかった言葉に、クレアは悪口を考えるのも忘れ、結の顔を見つめていた。
「だから助けます。私たちはまだクレアに生きていてほしいので」
真っ直ぐに向けられた声と言葉は、クレアが作り出していた壁の先へ簡単に触れた様だった。
口にしてみれば大層なものでもなかったが、それはずっと待ち望んでいた言葉で、そして海の向こうの姉妹の存在を知ったときから内心夢見ていた場面だった。心の準備などできていなかったクレアは、胸の内に迫る思いがそのまま態度に出た。
くしゃりと顔が歪み、伏せられる。その姿も、結は黙って見守っていた。肩の力がストンと抜けると、しゃくりあげるような嗚咽が聞こえ、ポタリと落ちたものが乾燥した床を濡らす。
ちょうど屋上に風が吹き込み、二人の長い髪が揺れた。金色と銀色、対照的だが、どちらも美しかった。鴎はそれだけで、二人の間には特別な繋がりがあることを証明しているのではないかと思った。
しばらくしてクレアの泣き声が止み、子供のような声が聞こえた。
「どうするの……?」
向けられた濡れた瞳を受けて、結は立ち上がった。
「策はあります」
「本当に?」
鴎に頷く姿は気力があり、先ほどの消耗は大分回復したようだった。
「相手は私たちより経験の豊富な“可能種”です。こうして屋上に逃げ込んだ私たちをそのままにしておく余裕すらあります」
結の言う通り、三人がここに来てからかなり時間が立っているが、階下からは何の干渉もない。
「ですが、叔父が交換条件で水野家の“命題”を教えてくれました。戦闘中の様子とも合致します。間違いありません。それを踏まえた上で勝負を挑みます」
自信の溢れる喋り方に、鴎はおお、と声を上げそうになったが、うん、と首を捻った。
「交換条件? それに結、さっき着いたんじゃないの?」
そこで結は、申し訳なさそうに少し体をもじもじさせた。
「ごめんなさい。二階に上がる少し前くらいに来ていて、クレアがそのまま倒しそうだったので外から様子を見ていたんです。叔父からの条件は、勝算のある作戦を立ててから戦え、だったので、それもあって……」
「そ、そっか。でも、今言ってたけど、勝ち目があるんだね?」
「はい。観察のおかげで、相手の出方は予想できます」
そこで結は、鴎とクレアの二人に向かい合った。
「でも、これは私一人では実行できません。三人全員の力が必要です」
風にポニーテールがたなびく。闇夜に輝く瞳を見ていると、頷くことに抵抗がなくなった。




