遺産の脅威
クレアがどれだけ努力したところで、逃走する際のあの直線的な動きを狙われれば避けようがない。しかし、銃撃音は一度もしなかった。今も通路から迫ってくる気配は感じられなかった。
取り繕うことも出来ずひた走る惨めな様を、あの男は笑いながら眺めていたのだ。その屈辱は、故郷の連中に向けられた視線と重なって、クレアの中の劣等感と歪な反骨精神を浮き彫りにした。
昼間に掛けられた言葉を思い返す度、これまで掛けられてきた言葉たちも胸に去来し、ザクザクと心が抉られるような痛みが走る。
どいつもこいつも評価しようとしない。話したこともないくせに、知りもしないくせに、自分のことを蔑んで、虐げる。
パニック状態の空白を、徐々にどす黒い怒りが侵食していく。
もう何十年も腐った空気を溜め込んでいた気がして、それと一緒に言葉を吐き出す。
「…殺してやる!」
血の気が引くほどに握りしめられていた拳から、赤色が滲んだ。怒りに歯を食いしばりながら、クレアは腰に提げていた火かき棒を再び手に取ると、階段を駆け上がった。
どの階も同じ構造なようで、二階に上がってすぐ、先ほど通ったのと同じ構造の通路から広間が見えた。
和助の姿はどこにも見当たらない。まだ余裕ぶって一階にいるということか。
その油断が命取りだ。先に広間に陣取って、ノコノコと来たところを狙ってやる。
そうしてクレアが通路を駆け抜け、一階からの吹き抜けを囲む、転落防止用の手すりが半円分望める位置まで辿り着いたとき、その手すりを和助が乗り越えてきた。
手すりに捕まって身を隠しておいて、クレアが開けた場所に来るのを待っていたのだ。
気づいたときには遅く、クレアは突然止まれないほど加速していた。二階に降り立った和助は銃を構えた。短い炸裂音が響き、クレアの体が弾かれたように吹き飛んだ。
布がこすれる音を立てながら床を転がる。
瞬時に放たれたのは三発だけで、わざと逸らしたのか、命中したのは一発だけだったが、それでもクレアの上半身と下半身は二つに分かれそうだった。
首を僅かに持ち上げると、血が“威装”を染め、床へ広がっているのが見えた。体中から酸素が抜け出してしまったようで、息が上手くできなかった。
和助がナメクジ並みの速度で近寄るのは、クレアに窒息寸前の気分を良く味わわせるためだろう。睨む力もないクレアを見下ろすと、天井へ向けて銃を乱射させた。
ビル中に響く音も、熱を伴う光も、五感をねじ伏せる圧力を持っている。天井の破片が顔に降りかかるのも構わず、和助は煙を上げている銃口を見つめながら呟いた。
「星だって殺せる輝きだ…」
その輝きに眩んでいる目をクレアに向ける。
「水野の僕としてはこの発明に思うところがないわけじゃないけれど。実際、君の有様を見ていると、その思いは強まるよ」
喋ることも出来ないほど弱っているクレアの無反応に、和助は気分を害したようだった。
だらりと伸びた細い右腕の上に自身の足を乗せ、ゆっくりと力を込める。クレアが涙と共に苦悶の声を上げると、満足そうに頷いた。
せめて顔だけは見られないように背ける姿に何かを刺激されながら、天井を見上げる。
「肩慣らしにもならなかったな」
そうして物思いに耽る和助の頭を、何処からか飛んできたゴミ箱が強打した。中身が床に散乱する。少し傾いた頭を飛んできた方に向けると、そこには沸き上がる恐怖に必死に蓋をした瞳があった。




