尋問
思考を塗り潰した空白が、視界にまでおよびそうだった。
階段を上るでもなく、ただそこに立っている男は、成人にのみ許される自信を湛えた体つきで、目が若干細めの黒髪だった。
階段に届くのは各階からの物音と扉に遮られた薄明かりだけで、ひどく閉鎖的だった。
鴎の息遣いが響く空間で、男は嬉しそうな目つきをしていた。
「知らないんだろ。僕たちがドンパチしても人間に気付かれないのは、三人以上集まったときだけだ。君がエレベーターに乗ろうとしてるのに気づいたときは、正直困ったよ」
訊いてもいないことを、男はペラペラと喋る。呼吸しか出来なくなっている鴎の様子を楽しんでいるのは明らかだ。
「でも、君が後ろに並んだ人たちを見て何か焦ってたから、ひょっとしてって、反対側の階段から回り込んできたんだ」
確かに、駅内の階段はここだけではない。しかし、そこから移動してくるのにはかなり距離があるはずだ。
そう口にしながら、男は鴎との距離を一段ずつ縮める。熱のある口調とは裏腹に、男の視線には何もなかった。温度を感じさせないのだ。鴎のことを、ただの血と肉の塊だと見ている目だ。
夜の校舎で向けられた視線を思い出す。大谷の、捨て切れない後ろ暗さを伴った目つきより、カエルが無表情でこちらに向けていた目に近い。
しかし、人があんな風に感情を排した目をするには経験が必要なはずで、それが何より恐ろしかった。
この男は他人を自分の意志で害した過去があって、それを繰り返すことをいささかも躊躇していない。
“可能種”かどうかに関係なく、鴎とは世界の見方が違う存在だった。
男が鴎の一つ下の段で足を止め、二人が向かい合ったとき、地下一階のドアから人が入ってきた。
「…!」
しかし、逃げようなどと考える間もなく、鴎は男に肩を掴まれ、脇に寄せられた。すれ違う人は単に連れ合いだと思ったのか、少しも気に留める素振りを見せずそのまま階段を上っていって、どこかの階へ消えてしまった。
鴎は目を合わせるのが耐え難くなり、男の首の辺りに視線を注ぎ続けた。男の掴む手にそれほど力は入っていないが、圧迫感は万力で締め付けられているようだった。
「君、“可能種”じゃないよね」
頭上の声は答えを求めておらず、鴎は口を噤んでいるしかなかった。
「こんなにニオイは近いのに、不思議だけど」
肩に力が込められ、鴎は枯れた声を上げた。
「やっぱり」
手が離されると同時に、膝から崩れ落ちそうになる。死に物狂いで呼吸をする鴎は、目に涙が浮かぶことにも構っていられなかった。
「鉄塔でふざけたことしてるとき、他の“可能種”がいたろ。さっきまでいたのはあいつだな?」
話し方からも熱が去った無機質な声が耳に届き、鉄塔での出来事、そしてクレアの顔が頭に浮かんだ。助けを求めて絶叫したくなったが、鴎の予想通りなら今頃は上の階で広場を見ているだろう。
まさか他の、しかもこんなに好戦的な“可能種”がそこらにいて、見られていたなんて。
呼吸を繰り返すだけの鴎を無表情に眺めていた男が、もう一度肩を掴んだ。
「もう一回だけ訊いてやるよ」
「うあっ」
肩から世にもおぞましい音がして、鴎は身をよじろうとしたが、男の吸い付いたように離れない手はそれを許さなかった。
「肩の後は顔だからなあ~」
身をよじらせる鴎に、今にも舌なめずりをしそうな顔をしている。サディスティックな欲求を抱えた猫なで声で、男は鴎に囁いた。
恐怖は鴎の全身を殴りつけて震えさせた。
どうなるのだろうか。頭に浮かぶのは悲観的な結末だけだ。散々嬲られて、死ぬのか。
そんなことは考えたくもない。さっさと話せば、この場で殺されることは避けられる。話すべきだ。
しかし、そのときクレアが怒っていたときの顔と、不思議そうにこちらを見ていたときの顔が目の前に浮かび上がる。すると、座りこむ結と向かい合っていたときと同じものが、日頃からは考え付かないような無謀な気概が、ふつふつと鴎の中に湧いてきた。
男が無言で漂わせる殺気も、鴎の口を割らせることはできなかった。べそをかいても譲れない意地がある。二度は裏切らないと自分はクレアに言ったのだ。
ただそれは、鴎を、惨めさと無力さ、そして痺れるようなひっ迫感から解き放ってくれるわけではなかった。クレアのことが無くても、怯え切っている鴎は結局口を開けることすらままならなかったかもしれない。
沈黙を続ける鴎の肩を男が砕こうとしたとき、階段に新たな声が響いた。
「離れなさい」




