サム
そう簡単に帰してもらえるはずはなく、散々小突き回れたあと、ようやくクレアは家への一本道にたどり着いた。
俯いて歩いていると、ぼろぼろになった服が目に入り、途端に涙が零れ落ちる。しゃくりあげながらよろよろと進む。
あの扱いに耐えられるというわけではないが、こうやって道を歩く時間が最も苦痛だった。無関心やときには同情を持った視線にさらされながら誰の手も差し伸べられずにいると、自分の受けている仕打ちは全く不当ではないのだと言われている気分になる。
立ち上がったときは蹴り飛ばしてやるつもりだった。しかし、赤髪の目があのときの家長の目の冷たさと重なった瞬間に、歯の根も合わなくなるほどの恐怖が体を襲い、反抗心は消えてしまっていた。
自分如きがもう一度あの前に立つときは死ぬときだ。そう思うと、恐ろしくて何もできなくなる。あの凍てついた目に初めて晒されたときも、先ほども、死ぬのが怖くてたまらなかった。
しかし、あんな風に扱われた後、いつも考えてしまう。そんなにしてまで生きている意味があるのだろうか。
取り巻きに掛けられた罵言が耳にこびりついている。生きていてどうなるのだろう。この先に明るい未来が待っていないことは他の誰よりも自分がよく分かっている。
家の前まで来ると、より一層気分は落ち込んだ。
クレアの母親は、クレアが物心ついてから今になるまでずっと、クレアの父親が自分たちを迎えに来ると信じてやまない。もう二、三言喋っていれば、その人物がドアを開ける音が聞こえてくるというような口ぶりを、幼いクレアはすっかり信じ込んでしまい、いじめられたとき、父親はもうすぐに自分を助けに来るのだと周囲に言い触らして止まなかった。
もう12歳にもなれば、父親は自分たちのことを覚えてもいないのだということくらい理解しているが、未だにそのときのことでからかいの言葉を投げつけられる。
しかし母親は今でも信じているのだ。愛した人が自分と娘を故郷へ連れ帰り、どんなしがらみからも解き放ってくれるのだと。
そんな話をされるのが苦痛で、もうずいぶん長い間一緒に食事を摂っていないし、母親の生活空間にも立ち入っていない。
こうして帰宅するときだけは別だ。母親はいつもリビングにいるし、それを避けては自分の部屋に入れない。
やっとの思いでドアを押し開き、身を固くしながら廊下を歩く。リビングの前を横切ろうとして、クレアの足はそこから動かなくなった。
母親が、いつか父親が来たとき困らないようにと買っていつもそこに座っていた、親子二人の暮らしには不要な大きさの机にその姿はなく、代わりにソファに見たことの無い男が座っていた。ここからは金色の後ろ頭と旋毛しか見えない。
クレアが縫い付けられたように動けないでいると、男は立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
2m近くはあろう長身で、同級生たちのように侮っているわけではない、しかし親しみのないことに関しては同じ瞳をクレアの顔に向けている。
「クレア・ハーパーか?」
「……なんですか」
他にいくつも訊くべきことがあるのは分かっていても、クレアの口はそれ以上動かなかった。少しもぶれない重心に、男は鍛え抜かれた体幹を覗かせながら、相変わらず無愛想な顔をしている。
「グレース・ハーパーはついさっき死んだ」
反応も出来ない。気持ちが事態の急変に追いついていないことがクレアの顔にはありありと浮かんでいるが、男はお構いなしに続ける。
「俺はサム・ジェネンズ。お前の母親の結婚相手だったはずの男の友人だ。死んだ友の遺言とお前の母親の同意により、今この瞬間から俺がお前の後見人となる」
サム・ジェネンズ。尾鏃竜を征し、200年ぶりに“竜狩り”の二つ名を継いだ男。“死尊将軍”と並んでジェネンズ家の屋台骨を支えている。
一族の集まりになどほとんど呼ばれたことの無いクレアですら耳にしたことはある名前に反応し、知識だけが脳内に浮かび上がるが、それは実体を伴わない雲の様だった。
「言っておくがお前にどうこうする権利はない。俺はとっくに当主の許可を得ているし、お前の親族の誰も手を挙げなかったんだ」
声はクレアに降りかからず過ぎゆく雨のようだった。ぼんやりとしたまま、母親は最期に何か言い残したのだろうかと考えた。




