ジュース
「クレア…!」
追いかけようと足を一歩踏み出すが、すぐ後ろにも声を掛けるべき相手がいる、と踏みとどまる。
振り返ると、見たことがないほどに青ざめた顔が待っていた。
間違っていなかった。隠す必要のなくなった消耗が、体全体に滲み出ている。
「結…」
近寄ろうとすると力なく首が振られ、「大丈夫です」という掠れた呟きが聞こえたが、そのひどく落ち込んだ声を聞いても止まる気にならなかった。
「一回座って、落ち着こう」
手を取って階の中央に並べられた椅子の一つに腰掛けさせる。口ではああ言っていたが、足取りはよろよろとしたものだった。
自分も隣の席に座りつつ、暗い顔にかける言葉を探る。
「結、さっきの話が本当かどうかは、まだ分からないよ」
クレアに内心謝りつつ、気休めにもならない言葉を掛ける。
「お父さんが結婚したばかりのころ、半年ほど海外に居たのは事実です」
いつもの父呼びではない。やはりよほどショックだったのだ。
「それに彼女は“可能種”でした」
そこで持ち上がった顔がこちらを向いた。
「鴎君は知っていたんですね」
どうして、と目で問いかけられ、言葉に詰まる。ばつが悪い所の騒ぎではない。自分が黙っていなければ、間違いなくこの事態は防げた。
「ごめん…。駅で偶然会って、僕のこと“可能種”だと思ってたみたいで、他の”可能種”を探してるっていうから、放っておけなくて手伝うことになったんだ…」
まだ結はこちらを見つめている。これではそれを伝えなかった理由にはならない。
「クレアが、“可能種”を探してるわけを黙ってたから、結たちのことを伝えなかった。それなのに結たちにだけクレアのことを教えるのもどうかと思って、言わなかった。ごめんなさい…」
失意の宿った双眸が、他のどんなに鋭いものよりも深く、鴎を抉った。下げた頭を上げることが出来ない。
結 は自分を心配してくれた。どうやら自分は、その気持ちを裏切ることについて甘く考えていたらしい。いっそため息でもつかれる方が楽だったかもしれないが、結は言葉を発さないままだ。
耐え難い数秒が過ぎ、鴎はその間身じろぎ一つできなかった。
「彼女は私に会って、本当はどうするつもりだったのでしょうか」
おずおずと前を向くと、いくらか落ち着きを取り戻した結の顔があった。
「彼女が私たち、六城家の人間を快く思わないのは理解できます。罵るのが目的なら、それは受け入れようと思っていましたが…」
「もしかして、だからあんな態度だったの?」
お前の口にすることなど問題ではないのだと言わんばかりの殺風景な顔。あれはわざとクレアを煽り、思うところをぶちまけさせようとしていたのか。
それは余りに不器用なやり方だと思ったが、結は軽く頷いた。
「でも、違いますね。私に不満が溜まっていたにしては、言葉遣いが柔らかすぎました」
咄嗟に文句を言うのならあんなものではないかという気はするが、しかしその意見に頷くだけの確信が鴎にはあった。
「あの、実はクレアと会ったのは二週間くらい前で、その間何度か一緒にいたんだけど」
そんなに長い間自分には黙っていたのか?
また悲しそうに曇った眉に、鴎は急いで続ける。
「探す相手を傷つけたり、どうにかするつもりはないって言ってたんだ。会ってみたいだけだって。それに関しては、嘘じゃないと思う」
目を見てした約束を破るような人物ではない。共に時間を過ごした二週間で感じたことだ。時折瞳に薄暗さを見たが、それに底の見えない深さはあっても、憎悪の激しさは無かった。
「私に会うためだけにイギリスから来た。そういうことですか?」
そう言われると判断に困る。わざわざ会いに来るからにはそれ相応の理由はあるのだろうが、クレアの結に対する振る舞いからは、それが何なのか分からなかった。
結の言う通り、自分の存在を感知していなかった六城家への恨みつらみをこぼしに来たようには見えなかったし、謝罪の件も、売り言葉に買い言葉のようなものだったと思う。
父親の件も、自分が何者かを伝えるためであり、それ自体が本題ではなかったのではないか。
「しっくりきませんが、今日はもう話すのは難しいでしょうね」
そう言って立ち上がり、別れを告げ帰ろうとする背中に、鴎は声を掛ける。
「結」
「どうかしましたか」
振り返った顔が、どことなくいつもより遠い気がして、少し言葉に詰まる。しかし、いまの内に謝っておきたかった。
「その、黙ってて、本当にごめん。何より先に結に相談するべきだったって、反省してます。ごめんなさい」
鴎は再度頭を下げ、詫びる。結の視線が、ひどく緩慢な時間の流れの中を切り裂く鋭さで向けられている気がした。
「顔を上げてください」
言われた通りにすると、間に人一人分ほどまで近づけられた結の顔があった。心臓と一緒に飛び跳ねそうになるほど驚いていると
「許しません」
「うっ…」
即座に許してもらえるとは期待していなかったが、責めるようにじっと見つめられながらそう言われると、肺が萎んだままもう動かないような気がした。
「もしまた私に内緒でこんなことをしていたら、です」
本人は気づいていないが、鴎の顔に安堵の色が浮かんだ。それを見た結は気丈にも満足げな笑みを浮かべてみせると
「そのときはジュースをおごってもらいますから」
そうして歩きだした結の揺れる黒髪を見送りながら、鴎の胸には、本当に姉妹なのかもしれないという直感が訪れていた。




