怪我
「鴎君は万先生のファンなので」
「ああ」と短く口にすると、庵も結もそれきり黙ってしまった。
つい浮ついていた鴎は、そこでようやくこの叔父と姪の二人は、どこかぎこちない間柄だったことを思い出した。その関係は変化していないらしい。どちらも相手の名前を呼ばないし、口を聞くところを見るのもよく考えてみるとこれが初めてかもしれない。
雨粒が窓にぶつかり音のカーテンを作り出す。その中では誰も口を開かない。鴎は急速に座り心地の悪くなったシートの上で身を縮こまらせていたが、黙っているのも気まずかったので、庵に話しかけた。
「庵さ、万せんせ…」
「庵でいいよ」
「庵さん。サインありがとうございました」
五月の騒動の際に、手を貸したお礼にと、結伝でサインされた本を貰ったのだ。鴎はそれを日焼けしないようビニールで包んで、時々眺めてはにやついている。
「おう、ちゃんと額縁に飾ってるか?」
また慌てだす鴎に「冗談だよ」と告げると
「ところで鴎君、あれから体調悪くなったことないか?」
一瞬きょとんとした鴎だったが、あれからというのが五月に少し怪我をしたときのことを指しているのだろうかと考え
「はい。なんにも」
すると結が顔を寄せ、鴎の瞳を覗き込んでくる。子供のころにひたすら見入っていた石のような引力でを持つ目に捉えられ、顔が逸らせない。
「本当ですか?」
「ほ、本当だよ。むしろ、足が痛むことなくなったくらいだから」
そう、中学で事故に遭って以来力が加わると痛んだ右足が、最近は全力で走ってもなんともないのだ。
医者にも心因性だとかどうだとか言われていたので、あの時期のことを乗り越えた証拠ではないかと鴎は思っている。
「そうか…」
「そうですか…」
そろって同じ感想を口にする二人。
「何かあったら言ってくれ。体の不調でも、なんでも」
なんでも、を聞いた辺りでクレアの顔が思い浮かんだ。
彼女は探し人をどうするつもりなのか分からなかったので黙っていたが、ここ何日か過ごしてみて、いきなり襲い掛かるような人物ではないことがよくわかった。危害を加えるつもりがないというのは、おそらく事実だ。
そもそも、結とクレアの間に接点は見つからない。海外に行ったことがないと言っていた。そうなると、可能性があるのは庵だけだが…。
どうしよう、という鴎の迷いを見逃さず、結がまた顔を寄せてくる。
「何かあったんですか?」
「ううん。な、なんにも」
反射的に首を横に振りつつ、やはり今話すべきではない、と鴎は思った。
他の“可能種”がいたとして、結たちなら知っているかもしれないが、それを伝えるとしてもまずクレアに相談するのが筋だ。
何より今まで黙っていたので今更言うのは気まずい。
そんな二人の様子に、庵は複雑な心境だったが、それはおくびにも出さず明るい声を掛ける。
「何もないならそれが一番いいよ。ただ、どんなに下らないことでも気軽に相談してくれ」
「は、はいっ」
直接口を聞くなんて栄誉に与かれ光栄です、そんな風に肩をピンと張り、鴎は返事をした




