月曜 放課後
そうして一日が終わり、鴎は一週間ぶりに下校時間まで待つことなく家へ帰った。すぐ帰宅する生徒とずれた時間帯で、人通りは少なかった。道中、図書館で借りた本のことを考えながら歩いていると、河川敷の辺りで立っている誰かに気づく。
もう枝だけになってしまった太い木を見上げているのは結だった。立ち止まった鴎に結も気づき、ぺこりと頭を下げてくる。素通りするのもおかしい気がして、鴎はどうしようか少し考えた。
結局近くまで行ってみることにして、また足を動かす。結は顔を木に向けなおし、見つめていた。鴎は口を開いたが、何も言わず閉じる。黙ったままの結の隣で、同じように黙りこくる。
鴎が気まずさを覚えているのには理由があった。
なんて呼べばいいんだ…
金曜日、勢いで名前を呼んだあと、その日はそのまま結と呼び続けた。あれがせめて木曜なら、次の日すぐに顔を合わせていれば、簡単に名前呼びへシフトしていられたかもしれない。
しかし、土曜日、日曜日に一人でそのことを思い返していると、どうして自分にあんな真似ができたのか半ば信じられず、結からどう思われたのか考え、奇声を上げながら転がりまわってしまった。
そのせいで今朝も、会った時に頭を下げ合っただけだ。そんなことを引きずったまま話しかけないでいるのは、ものすごく感じが悪い。そう考え何か喋ろうとするのだが、三日前はあんなに簡単だったことが、今の鴎にとってはとてもできそうにない。これに比べたらテストなんて大したことは無かった。
喋ろうとするほど逆効果で、鴎は自分を中心に世界がぐるぐると回っているような心地に陥った。ふと隣の結に視線を向けると、その顔がひどく安らかなことに気付いた。すると言葉がすっと出てくる。
「好きな木なの?」
鴎が自分で自分に驚いていると、そんなことに毛ほども気づかない様子で、結がこちらを向いて頷く。
ちょうど吹いてきた風に揺れる髪を片手で抑えながら、もう片方の手でそっと幹に触れる。
「梅の木です」
結はどこか懐かしむように目を細め、年季を感じさせる木のごつごつとした肌を見上げた。
「家の庭にも植えられていて、何度か家族で花見をしました。もうなくってしまいましたけど」
愛おしげな眼差しがこちらに向き、鴎は少し心臓の鼓動が早まったのを感じた。
「この髪飾りが私と特別相性のいい“遺産”です」
そう言って自身の右側頭部の髪飾りを指さす。言われてみれば、それは何かの花弁を模しているようだった。これは
「梅の花…かな?」
「はい、名前は“白梅”、母の遺してくれたものです」
視線が胸の高さまで下げられる。
「…お母さんも、お花見のことをよく覚えてたんじゃないかな」
思わず口にした後で、差し出がましい真似だったかと思ったが、結は頷いてくれた。
「今はそう思います」
再び視線を上げたその横顔には涼やかさがあった。数秒木に寄り添い、手とともに体を離す。
「一緒に帰りませんか」
突然の申し出に内心慌てながら、うんと頷く。
傍を流れる川が日を反射しまばゆいほどの輝きを示す。しばらく二人とも口を閉じたまま並んで歩いた。あくびをしたくなるほど長閑な午後だが、女子と帰るのが初めての鴎はそんな気分ではなかった。
早まったままの胸に急かされ、鴎は口を開いた。
「今日は車じゃないんだ?」
「そうですね。これからは…」
そこまで口にした結が何かに気づいた顔をする。リュックを漁り袋に包まれた何かを取り出すと、どうしたのかと見つめる鴎に両手で差し出す。
「叔父からです」
よくわからないまま袋を開けると、何やら新しい厚めの本が入っていた。ペンで書かれたサインを読み上げる。
「鴎君へ、めちゃくちゃ感謝を込めて、万…え?」
素っ頓狂な声を上げながら結の顔を見る。
「万は叔父です」
「えぇー!?」
驚きに開いた口が塞がらない。本を持つ手つきを改め、恭しく捧げ持つ。
「ちっとも気づかなかった…」
「名前のアナグラムらしいです。まぁ、息抜きだったらしいので、そういう雰囲気はありませんでしたね」
どうやら新作らしい本を眺める。結の言う通り、振り返ってみても庵にそんな印象は全く抱かなった。もっと話をしておけばよかったと若干後悔しつつ、袋を丁寧にバックへ収める。
「本当に叔父の本が好きなんですね」
自分が瞳を輝かせていたことに気付き、少し頬を染める。
「いやぁ、病院で読んでからすっかりファンで」
「…がっかりしませんでしたか?」
落ちた声のトーンに、結の顔を見る。
「本当は庵さんの本じゃなかったから?」
コクリと頷く。鴎は少し考えを纏め、口にする。
「驚いたけど、がっかりなんてしなかったよ。面白さに関係なかったし」
結たちへ気を遣っている訳ではない。誰であろうと、鴎に読書の面白さを教え、立ち直らせてくれた人物だ、感謝しかない。それを思うと、結の母親だと知り、却ってすっきりしている自分がいる。
「だからそんなに気にしないでいいと思うよ」
一番伝えたいことを伝える。さりげなく言えただろうか。結を見ると、先ほどよりはぎこちなく、しかし頷いていた。
また沈黙が下りたが、今度はさほど居心地の悪いものではなかった。どこかから車のクラクションが聞こえ、二人ともそちらを見る。
「金曜日に」
突然、触れようか迷っていた話題を出され、鴎は軽く慌てる。
「あ、う、うん」
「屋上で話を聞いたとき、こんなにお母さんの本を好きになってくれた人がいるのなら、本を出してしまったのもそんなに悪いことじゃないんじゃないかって、思えました。」
鴎に向けられたその顔には、もう母親のことを話すときの、胸に刺さった棘に触れるような暗さはない。鴎はその表情を見たとき、自分がしたことは、まるで意味がなかったわけではなかったと思った。
「あれからやっとお母さんのこと、ちゃんと向き合えた気がします。あなたが私に話してくれたおかげです。だから」
そこで少しだけ視線が下げられる。そして
「ありがとう、鴎くん」
不慣れなりに精一杯といったふうで、照れたように微笑んだ。
「…!」
木々を揺さぶった風が、若葉の薫りを二人に運んだ。胸に吹き込むような風に結の髪が撫でられ、さらさらと揺れるのを目にした鴎は、なんだ、と思う。
あの銀色も神秘的なくらいきれいだったけど、この黒色が勝ってる。だって、こっちはこんなに素敵な笑顔と一緒なんだから。
引き込まれるように笑みを返し、鴎は力強く頷く。
「あ、気になってたんだけど、もう京都に帰っちゃうの?」
「高校を卒業するまではこっちにいるつもりです。転校するとき叔父とも…」
時折笑い声を上げながら同じ道を歩く二人の後ろで、梅の木はただそこにあった。




