金曜 校内
光の届かない校舎の中、目を凝らしながら進むと、荒い息遣いが聞こえる。罠に注意しながら音の方へ歩く。
一階の水飲み場、壁にもたれるようにして、大谷栞里は座っていた。頼りない呼吸を続けながら、結の足音に反応したように頭を上げる。不健康な青白さの顔に憔悴が色濃く浮き出ていた。
結は無言のまま近づく。
「…気づいた?」
息も絶え絶えといった様子の大谷は、試すように尋ねる。その様子に確信を深めた結の瞳に、怒りの炎が灯る。
「鴎くんに何をしたんですか」
胸中とは裏腹に冷え切った声が廊下に響く。大谷は息を整えると
「足折れてたから、蟲入れて治した」
絶句の後、激情を雄弁に伝える殺気が漏れ出る。呑まれないように努めながら、結の薙刀を持つ手を押し留めるように大谷が右手を向けた。
「取引をしよう」
「…」
意味を測りかねた結の沈黙を肯定と受け取り、大谷が言葉を続ける。
「私の要求は、この場を見逃してもらうこと」
「ふざけるな」
今度ははっきりと怒気を込め、結は薙刀を振りかぶる。
「私が死んだら鴎くんもただじゃすまないよ」
翠色の煌めきがぴたりと止まった。水を打ったような静けさが場を満たす。大谷が切った会話を制するための切り札は、効果覿面だった。
「蟲もその内死ぬか、暴走するか。まぁ二度と歩けなくはなるだろうね」
人間に用いればどうなるかなど試したことの無い大谷だったが、ここは断言する。結が向けてくる視線に、軽蔑の色が宿るのを肌で感じた。
「こっちは譲歩として、カエルたちをもとに戻すし、この高校からは離れる」
大谷は、あんなものを見せつけられた後に、これ以上江袋高校に執着するつもりはなかった。自身の死を偽装し、周囲の目をくらます。“楔”だった男の顔が頭の片隅に浮かんだが、今は感傷に浸る場合ではないと自身に言い聞かせ、結の返答を待つ。
「条件を加えろ」
思いのほか早く静寂は破られた。極めて無機的な印象を与える声、大谷は結にその叔父の姿を垣間見、体が総毛立った。
「蟲を通じて鴎くんに影響を及ばさないこと、これから移った場所で人に危害を加えないこと、この二つだ」
ともすれば震える声を悟られぬ様、大谷はわざと居丈高な物言いをする。
「あのねぇ、立場理解しなよ。要求できるのはどう考えても私で、あんたじゃ…」
「お前を達磨にして監禁したっていいんだ」
間違いなく空気が凍り付いた。剥き出しの害意に突然殴りつけられた大谷は、呼吸の仕方を忘れた。
淡々とした喋り方は、結が爆発寸前だという証拠だった。
「蟲をどうこうなんてできない位衰弱させて、解除方法を尋ね続ける。どうするか、お前が決めろ」
口汚く罵ろうとして、大谷が喋るまでやる、そう告げた双眸に射竦められる。
体の中で、ただ一つ自由の利く口内で奥歯を噛み締める。その瞬間、これ以上口答えしたところで意味はないと、体の深い場所が悟った。弱みに見えたのは、虎の尾だった。それを踏まれた結はもう手段を選ばないだろう。
内心の不満を噛み殺した大谷は、不承不承頷く。
「…分かった」
心中で結を罵り、決意する。
必ず逆襲する、こいつも、こいつの叔父も、絶対に殺してやる。みっともないくらいに吠え面をかかせて、血だまりの中に溺れさせてやる。
どうにかして大谷が落ち着こうとしていると、頭上から結の声が降ってきた。
「どう間違っても、約束を反故にしようなんて考えるなよ。またどこかで人を傷つけたり、鴎くんの様子がおかしくなったら、その時はどこにいようが探し出して」
大谷は、頬の皮一枚先に突き立てられた薙刀の、鋭い光が目を刺すのを見た。それは容易に骨肉を断つ刃物にだけ許された鋭さだ。
「必ず殺してやる」
もう取り繕う余裕もなく、大谷は恐怖に引きつった顔で結を見つめた。涙に滲む視界の中で、薙刀を引き抜いた結が去っていくのが見えた。
「ちくしょう…」
結局何事も成し得なかった我が身を呪う。一向に治らない傷に手をやり、青白い頬を伝う涙に塩辛いものを混じらせながら、大谷は呟いた。




