金曜 駐車場(8)
「…?」
里見鴎は自分の瞼が閉じていることに気付いた。ゆっくりと目を開け、視界の大部分を占める星空を見つめる。星々の点滅と月の輝きは靄がかった頭の底の方まで届いた。しばらく放心状態でそうしていると、こちらを見ている誰かに視線を写した。
ずいぶんときれいな女性だ。いや、これは女の子か。鴎がそんなことを考えながら見つめていた顔が、やさしげな声で話しかけてくる。
「鴎くん」
「…!」
そこでやっと、意識が定かになった。突然映像とともに記憶が次々と脳内へあふれ出し、再び混乱しながら口走ろうとして、結に膝枕をされていることに気付き、すべてどうでもよくなった。
黒い髪、そして制服に戻った結が、こちらを覗き込んでいる。
鴎は慌てて飛び起きようとして、結に止められた。
「まだ寝ていてください、もうじき叔父が迎えに来ますから」
強い語気に押されるようにして、頭を結の膝に乗せたままにする。布団よりもよほど居心地がいいのに、どうしてこんなに刺激的なんだろうと考え、そんなことを考えるべきではないと思い、急いで思考の置き場所を他のことに移す。
「あの、あの、大谷さっ、大谷はっ」
鴎の顔を見つめていた目が逸らされ、校舎の方に向けられる。追おうにも追えない視線に、鴎が黙って待っていると
「対処は完了しました」
という短い声が返ってきた。
何か言わずにはいられないが、何を言えばいいかは浮かんでこず、鴎はこちらも短い応答を返す。
「そっか…」
しばらく沈黙が場に流れるかと思ったが結に
「今、気分はどうですか、体の調子も」
と確認される。
「あぁ、うん。平気だと思うよ、体も痛みは…」
自分の声の硬さに、結が気が付かないよう祈りつつ、寝転がったまま腕から順に体を動かし、肝心の足を軽く揺する。
「ないね」
自分が後ろから何かに押されたことを思い出し、体に目をやるが、そこにはかすり傷一つない。
鴎の返事を受けて、結の瞳に覗いていた憂いの色が消えた。
「よかった…」
と安堵の声とともに胸をなでおろす。
少し照れくささを感じつつ、駐車場に目を向けると、萎んだカエルの死骸が転がっていた。
「生き物としては元のカエルに戻ったみたいです。でも大きさは変わらず、自重で潰れてしまいました」
どれも体の一部、もしくは全体が、裂けたり弾け飛んでいたりで原形をとどめていない。
「ほんとに終わったんだ…」
そう思うと、どっと体の力が抜ける。結も頷くと
「なんとか勝てました」
鴎はそこで、結が立つこともままならないほどの傷を負っていたことを思い出し尋ねる。
「どうやってあそこから逆転したの?」
「“遺産”には力を抑える仕組みがあるのでそれを解きました。」
あっさりと語られた事実に「そうなんだぁ…」と気の抜けた返事が漏れる。鴎の脱力に気づいた結が付け足す。
「あまり力を引き出すと危険なので、あの状況では私と特別相性のいい“白梅”だけができました。それでも終わった後は危うくいなくなるところでしたから、最後の手段だったんですよ。実際破れかぶれでした」
お前の行動も無駄でなかったと遠回しに慰められている気がして、鴎はまた「そうなんだ」と袋から空気が抜け出るような声を出した。
結は一人で大谷を倒してしまった、終わってみればやはり自分は大したことをしていない。胸を刺すものはあるが、こうして二人とも無事な以上、鴎はとやかく言うつもりはなかった。
庵が迎えに来るまで休むべきだと主張する結を、鴎がもう大丈夫だからと宥めて一人で立ち上がったころに、駐車場へ黒塗りの車が入ってきた。危うく膝枕されているのを見られるところだったと、鴎はほっと息をついた。
事前に連絡していたらしく、車から出てきた庵は二人に手を挙げただけで何も聞かず、校舎の被害模様を見て顔を顰めた。乗車する結に気遣われながら鴎も続くと、庵も運転席に戻ってきて、車がゆっくりと発進する。
鴎は扉にもたれてしまうのを堪えきれず、結も心なしか纏う雰囲気から鋭さが取れている。二人から漂う疲労の色を察したのか、車中でも庵は黙ってハンドルを握っていた。根掘り葉掘り質問してこないことに感謝しつつ、シートに体を埋める。
エンジンの律動に向けられていた意識が、ふと大谷のことに及ぶ。“可能種”だと知る前から、どことなく無警戒にはなれず、名前で呼ぶことの無かった女の子。それは彼女が鴎とは違う生き物だったからなのか、それとも二人の相性の問題だったのか、今となってはわからない。確かなことは、もう深夜の校舎にカエルは現れないこと、鴎は命の心配をする必要はないことだ。
そこで鴎は、結はどうするつもりなのだろうと思った。大谷がいなくなった今、結が江袋高校に通う理由はない。京都へ戻るのかもしれない。
ちらりと盗み見た結の横顔には、屋上で垣間見せた親しさが失われて見えた。無力感とは別種なものが胸によぎるが、鴎は深く考えないようにして車外に視線を移した。
明日は土曜日だとか、制服汚れてるなだとか、とりとめのない思考に嵌っていた鴎は、車が停止したことでやっと、自分の住処に到着したと気づいた。
「ついたぞ、鴎君」
車を降りると、礼を言って頭を下げる。庵はひらひらと手を振って、結は自分もぺこりと頭を下げて応えた。ドアを閉め、のろのろと車から離れたところで、車窓が下りた。
「それでは、また月曜日に」
結の顔は、いつも教室で浮かべていた無愛想と無表情の中間くらいの顔だったが、声音は二人だけで話すときのものだった。疲れた体にその声がじわりと沁みたような気がして、鴎は恥ずかしいくらい元気な声で返事をする。
「うんっ!」
結はこくりと頷くと、庵にどうぞと促す。庵は二人の遣り取りに少し驚いた顔をした後、それより控えめにうれしそうな表情を浮かべると、鴎にもう一度手を振って車を発進させた。
黒塗りの車が、住宅街の作り出した影のトンネルに消えていくまで見送ると、鴎は踵を返し、自分の部屋へと帰っていった。




