金曜 生物準備室(5)
辺りを漂う冷気に今更気づいたような面持ちで、鴎は大谷の顔を見る。先ほどまで浮かんでいた笑みの残り香も感じさせない能面が、瞬きもせずに正面を捉えていた。
「ほんと、よくわかんないとこで回る頭だね……」
吐き捨てるようにそう呟くと、大谷は芋虫を鴎に向けて蹴飛ばした。ぬめりをもった透明の尾を引きつつ床を滑るそれに、鴎は後じさる。
「アタシだって人を殺したいわけじゃないから、そいつで知り合いをいじくられたくなければ、もうこのことには関わるなって脅すだけのつもりだったんだけど」
肩を大きく落とし、深いため息を口から吐き出す、
「そこまで勘づいてちゃなぁ……」
大谷の掠れた呟きは、ふとした拍子に覗き込んだ海の昏さを思わせるものだった。
ぞわりと粟だった肌に、鴎は調子に乗りすぎたことを自覚する。時間稼ぎを超えて、つい喋りすぎた。
自分と結が話したことを思い返せば、“可能種”と“楔”の関係が、余人の立ち入りを拒むようなものであることは明らかだ。最後に口走ったことは、挑発だと受け取られたかもしれない。
いまや身を押し包むように感じる恐怖に、鴎は必至で抗う。
準備室の扉は開き戸だったから、出ていくまでは数秒かかることを絶望的な気持ちで試算しつつ、なんとか事態を打開しようとする。
身構えた体から振り絞った声は、惨めな程に震えていた。
「なっ、なんでこんなことをしてるんだ!?」
「は?」と口にする大谷の目は、子供嫌いが喃語を話す幼児に向けるような冷ややかさで、鴎は吃りつつ、
「あ、あんな危険な生き物を放し飼いにして、それを駆除しに来た六城さんを殺そうとして、何がしたいんだよ!」
「あぁ…」
大谷は視線を鴎から窓へ向ける。
「この高校に来たのは偶々だよ。でもね、六城さんがあいつの姪だってわかったから」
あいつの姪という言葉に、鴎は庵のことを真っ先に思い浮かべる。
「あの子を殺せば、あいつも少しは……」
声の静けさ故に、冗談ではないことが察せられた。先ほどの人殺しを厭うような発言に、わずかに抱いていた希望があっという間に消え失せる。改めて、大谷は殺人を辞さないこと、その対象は結であることを認識する。
止めなくては。先ほどまで身を縛っていた恐れは何処かへ吹き飛びんだ。どうにかしてここから逃れて、結に話を伝えなくては。
立ちっぱなしなせいで若干麻痺した足に活を入れつつ、タイミングを探る。大谷は会話の中で“あいつ”とやらに向ける鬱屈した感情が触発されたのか、何処か物憂げな表情で外を眺めたままだ。その瞳には明らかに鴎は写っていない。
今逃げるべきか、鴎が逡巡していると大谷が見つめる先、南校舎から轟音が響いた。大谷の注意がそちらへ向けられるのを確認しつつ、ここしかないと判断した体が動き始める。
後ろに振り向きながら一歩目を踏み出す。足音に大谷が反応するのを視界の端で捉えた。右足がもつれることに涙が出そうになったとき、声と衝撃が来た。
「バカっ!」
鴎は横っ飛びに吹き飛び強かに体を打った。
本当に出てきた涙で視界が滲む。うつ伏せで床に寝そべったままわずかに頭をもたげると、真ん中あたりで、大きく開いたコンパスのようになった自分の右足があった。
声も出ない。
ショックと痛みで薄れていく意識は、教室の隅に置かれた机の横の物体を、カエルと判断することなく途切れた。




